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「入口」が。。。


入口が違ってしまうと

研修等における「え?」案件

この時期は毎年、いろんな研修に出講することが多いです。先日も国主催のPPP/PFI関連の研修に出講し、受講生のグループワークによる発表を聞く機会がありました。毎年参加している研修で、もちろんなかにはよく考えられた発表がされることもありますが、残念ながら(自分の講演の論点とか聞いてなかったの?検討にあたっての留意事項とかわざと無視してるの?という)「え?」案件の方が圧倒的に多いのが現実です。

・(海なし県なのに)50mの屋内プールをPFI法に基づくPFIでつくりたい。ターゲットはアスリートと県民。整備理由は水泳協会を中心に10,000人の署名が集まったから。
・JRがリニア関係の残土処理で公有地を12ha造成してくれる(90%がJR負担)。村として道の駅を当該地に整備し、企業誘致も合わせることで一発逆転ホームランを狙いたい。地元雇用は全体の70%以上で。
・市街地の一等地にある老朽化した市営住宅を改築したい。約100戸をRC造で整備することは決定事項。余剰地を民間活用して地域との連携も図りたい。
・まちなかにある貸館中心の老朽化した複数の公共施設を駅前に集約したい。公共施設等適正管理推進事業債の適用期限に間に合わせるためにDB方式を採用する。運営はこれまでどおり直営。
・(超巨大な)庁舎を整備するにあたり、市民が気軽に立ち寄れる庁舎とするとともに、前面の広場と都市公園法に基づく都市公園は民間が自由度高く活用してまちなかの回遊性を高めたい。ただし、広場での収益事業は300㎡以内、都市公園では収益事業禁止。

国主催の研修における受講生のプレゼン概要(の一部)

どれもこれも行政のご都合主義で、「魔法の手法であるPPP/PFI手法」を用いれば民間が何でも解決してくれると本気で思い込んでいるのか、行政は条件を示しているんだからこれを実現できないのは民間が悪いとジャイアン理論なのかは定かではないですが、要はノーリアリティなのです。

こちらのnoteでも書いたとおりPPP/PFIは決して魔法の手法ではありません。
戦後の焼け野原から高度経済成長までは、強烈な右肩上がりを背景として護送船団・中央集権で復興を遂げましたが、バブル崩壊以降はこの供給一辺倒のシステムは通じない時代になっています。

行政の財政システムをみても単年度会計・現金主義で起債もほとんどすることなく(多少の歪みを許容しながらでも)予算が組めていた時代、税の再配分だけを考えればよかった時代は遥か昔に終わっています。
何十年も前から行政は、「明日を生きるための日銭」を税金以外の方法で必死になって調達しなければいけない時代になっていたはずです。そのときに必要なノウハウ・マンパワーが不足するのであれば、そうしたものを保有する人たちとビジネスベースで手を組むことが求められます。それこそがまさにPPP/PFIであり、必死になれば自ずと活用しているはずなので、PPP/PFIという言葉すら本質的ではないかもしれません。

こうした現代的な「まち」を取り巻く環境を肌感覚で理解せず、庁舎というお城に籠って上司・議会や市民の顔色ばかり伺い、前例踏襲・事勿れでルーティンワークばかりしているから「え?」案件になってしまうのです。更に公務員はマジメなので「え?」案件を真剣に事業化してしまいます。

アホコンサルによるミスリード

こうしたことに加担してしまっているがアホコンサルです。多くのまちは地域コンテンツ・地域プレーヤーとリンクした「ホンモノのプロジェクト」をほとんどしたことがありません。
そこでコンサルが国等が作成したハード整備に特化した表面的な優良事例をセミナー等で紹介したり、自治体に持ち込んだりします。

「このまちでもこんな素敵で大きな公共施設が整備できますよ。やり方は私たちに任せてください。客観的でかつ専門性の高い事業手法比較表を作成して、要求水準書もみなさんの希望に沿って作成します。市民ワークショップで市民の声も反映しますし、議会からの要望ももちろん受けます。」
弱っている・困りごとがあるので、簡単にこうしたレベルの低い誘惑にひっかかってしまい、アホコンサルと手を組んでいくことなります。
可能性調査・基本構想策定業務委託・基本計画策定業務委託・アドバイザリー契約と、段階ごとに高額になっていく委託費を払いながら「なんとなく」ものによっては100ページを超える要求水準書や公募関連資料が出来上がっていきます。

こちらのnoteでも指摘したとおり、事業手法比較表は「表面的に従来型と比較してPFI法に基づくPFIやリース手法を用いた場合に何%コストが安くなるのか」をVFMとして算定したものに過ぎません。そもそもの与条件がアホなものだったら、何%マシになるのかを示しているにすぎないので、できあがるアウトプットもアホなハコモノ(≠プロジェクト)にしかなりません。

しかし、表面的には「なんとなく」分厚い各種計画、計算されたように見える事業手法の比較表、それらしいVFMがあるので「やった感」がでてしまいます。
後段で述べますが、ビジョンが全く検討・共通認識化されていないままに第三者によって事業の骨格や入口をミスリードされてしまっているのです。

市民の声・有識者委員会・議会の意見

市民の声等にも注意が必要です。もちろん公共サービスの享受者としての市民は大切ですし、市民生活を支えたり豊かにするために「良質なサービス」を提供することは忘れてはなりません。しかし、経営者たる行政と消費者たる市民を混同することとは訳が違います。

「市民の声を聞いたのか」と上司や議会から指摘されることも多いと思います。市民の声を聞くことは経営的な部分まで市民ワークショップで決めていくことと同義ではありません。仮にそこまで市民とやるのであれば、発言や意見には経営責任を取ることを求めるべきです。

有識者会議も同様です。多くの委員会では、事務局(やなぜかコンサル)の作成した資料に沿って「その場で単発の意見」をするのに過ぎず、全体像に影響を与えることがないどころか、「有識者のお墨付き」をとられてしまいます。
一方でこうした場に参加する有識者も当該プロジェクトに対する経営責任・結果責任が要求されていないことから、持論を展開していくにすぎません。

二限代表制の一翼を担う議会からも、そのまちの未来を左右するプロジェクト等について多様な意見が寄せられることがあると思います。議員が「市民の代表」であり、まちとしての「意思決定機関」であることを本気で理解していれば、まちの経営に関わるプロとして当該プロジェクトによってエリア・まち全体のバランスシートがどのようになっていくのか、そこから得られるリターンは十分に価値があるものなのか、プロとして明確な根拠を持って意見を表明すべきです。同時に、その意見を自らの支持者等にも合理的な根拠を含めて示したうえでブラッシュアップしていくことが求められます。

前述の例示した「10,000人の署名」が根拠になってしまうのは、まさに上記のいろんなパターンに類する「こうあったらいいな」の典型例です。単なる要望でしかない10,000人の署名ではなく、10,000人から10,000円ずつクラウドファンディング等で集めることのほうが圧倒的な立法事実になります。

入口を間違う恐ろしさ

誰かが決めた入口

全国各地でいまだに数多く展開されているザ・ハコモノ事業は入口が間違っていることが多いのです。しかも、それは自分たちで考えたものではなく前述のように「誰かが決めた」入口であることが多いのです。

その「誰か」に対して担当者として、あるいは組織として正体してやり合ったり対等な立場でディスカッションしない(≠できない)で「事業の与条件」としてしまっているのです。
「10,000人の署名」「RC造で約100戸で整備」といった話はまさにこれです。

また、行政的なご都合主義が根拠となってしまっている場合も厄介です。
「適正管理推進事業債の適用期限までに」「公園では収益事業禁止、広場でも300㎡以内(でも民間は稼いでね)」といった、行政が自分たちの都合の良いように相手のことを考えず与条件を設定したり、過剰なリスクヘッジしながら民間に成果を求めてしまいます。
これも、自分たちで設定しているようですが、結局は上層部や様々な部署から言われていること、自分たちでめんどくさいと思っていることをパッチワークして変な入口を作ってしまっているのです。

後戻りが難しい

こうした誤った入口、魔界への入口は主体性を持って設定したものではなく、また自分たちは「レールに乗りながら楽をして粛々と事業を進めること」を仕事だと思い込み、専門性がないから・やったことがないからと言い訳をして魔界へ飛び込んでしまうのです。
「うまくできなくても自分たちのせいではない」と魔界に潜り込んでしまい、アドバイザリー業務委託という名のもとにコンサルが入り、分厚い要求水準書の作成作業が行われてきます。
こうした場面で入ってくるコンサルは先行事例における資料を「発注者たる行政の都合に合わせて」リライトしながら「業務として」要求水準書を作成していきます。ビジョンを含むそもそも論には猛烈な時間とコスト、経験知が要求されるためにそうしたものは一切省き、事業手法の比較表からスタートしてしまいます。
こうなってしまうと完全に魔界のど真ん中にハマってしまい、数千万円のアドバイザリー契約をしているので今さら後戻りはできないし、事業のレールに乗ってしまって主導権はコンサルが握っているので、軌道修正も(専門性や熱意が不足していることもあり)難しい状況となってしまいます。

議会等にも事前に意見を求めてそれを無条件に受け入れていたり、アドバイザリー契約などで事前に説明をしてしまっていることから、何か不都合が見えたとしても後戻りする勇気が出てきません。
有名なアウガにおいても、関連報告書をみていけば何度も立ち止まり、後戻りするチャンスはあったのです。

https://www.city.aomori.aomori.jp/gikai/kako-giketsu/documents/h290605augamondainikansurutyousahoukoku.pdf

入口を間違えないために

やっぱり「ビジョン」

こうした入口を間違い、魔界へ潜り込み、最終的なアウトプットが墓標になってしまうプロジェクトに多くみられる傾向は、「目的が箇条書きで多く書かれていること」です。更にその目的には「みんな」「賑わい」といった曖昧な言葉が羅列されています。
関係者の「なんとなく」合意を得るために曖昧な言葉で、誰かにどこかは共感できることばを使うから「その場を取り繕う」ことはできますが、結果としては何も決まっていません。

藤沢市_生活・文化拠点整備事業における市民説明会資料

藤沢市ではそのことに気づき、関係職員によるワーキンググループを組織し、徹底的な缶詰作業で多様な方面から検討を重ねビジョンを整理していきました。

藤沢市_生活・文化拠点整備事業における市民説明会資料
藤沢市_生活・文化拠点整備事業における市民説明会資料
藤沢市_生活・文化拠点整備事業における市民説明会資料

ビジョンに基づくコンテンツを具体的に検討し、「誰が・何を・どういう頻度で・どのような収支でやっていくのか」を固有名詞で整理していくことで、自ずとリアリティのない「魔界への入口」に陥るリスクはほぼ回避できます。

自分の金だと思って考える

もうひとつ重要なのことは、そのプロジェクトを考えるときに「ハコを整備すればみんながやってきて、まちに賑わいが生まれ活性化する」と妄想したり、コンサルや設計事務所が提示するそれらしいパースを鵜呑みにしないことです。
具体的なコンテンツ、プレーヤーもセットアップされていないのに、そのような理想的な場がハードを整備するだけで創出できることはあり得ません。

うまくいかないと、自分たちは「コンサルに高い委託費を払って言われるがままにやったんだから悪くない」と言い訳したり、見た目を誤魔化すために税金投入型のイベントを乱発したり、指定管理委託料に当該施設の維持管理費等を見えないように潜り込ませるなどのセコい手を打つようになってしまいます。
そして、これらが明るみに出ないよう必死に隠そうとしますが、いつかは投下できる税金もなくなり、そのときには「なぜ今まで黙っていたんだ!」という犯人探しが(自分たちも当事者であるにも関わらず)始まるのです。

こうしたことを回避するためには、そのプロジェクトの入口で「自分の金だったらやるのか」「自分がその場の一番のヘビーユーザー・インフルエンサーになりたいのか」を考えることです。
関係者である自分すら魅力を感じずいかない場に「誰か」が行くことはありません。自分の金でやりたくないものを人の金、ましてや税金を使ってやってはいけないのです。この当たり前のことを確認するのは簡単なことです。

常総市_神達市長@あすなろの里
常総市_神達市長@移動スーパー

常総市の神達市長は写真のとおり、あすなろの里のロッジサイト・キャンプサイトが生まれ変わった際には自らが楽しんだり、移動スーパーにも進んで同行して買い物客と談話したりしています。こうした姿勢を担当者から首長まで自主的に見せられるのかが勝負です。

与条件の共通認識

ビジョン・コンテンツとあわせて与条件について関係者で共通認識を作っておくことも大切です。
なぜか「RCで100戸」といった仕様が与条件になってしまうと、あとは「どれだけ安く建てるのか」といった古臭いVFMの議論に陥ってしまいます。
与条件とは「いつまでにどのような状態を作りたいのか」「そのためにどれだけの資金を投下するのか」「何をもってリターンとするのか」「事業からの撤退ライン」などが基本となります。
行政ではこれ以外にどうしても「政治的に課せられるもの」「地域の事情」なども与条件として組み込まなければいけないこともありますが、それがプロジェクトの質を落としたりビジョンに影響を与えるようなものである場合は、こうしたものが絶対なのか?を徹底的に検証したり、覚悟をもって関係者と議論して決断・行動していくことが求められます。

まちとリンクする

そして「え?」案件のもう一つの問題は「点として」しか考えていないことです。「貸館中心の老朽化した複数の公共施設を駅前に集約したい」は、駅前に公有地が余っているのかもしれませんが、駅前の一等地にエリア価値の向上に寄与しない貸館中心の巨大なハコモノが何十年にも渡り鎮座してしまうことは、まちの価値・可能性を大きく毀損します。
「一発逆転ホームランを狙って地域の人も毎日買い物等で訪れるような場」を官製ビジネスで整備してしまうと、まちなかの既存商店の顧客・売上を奪うことに直結しますが、点としてしか見えないと「みんなが喜んで賑わっている」と錯覚してしまいます。

大切なのは、そのプロジェクトをすることによって「まち」がどのようになっていくのかです。南池袋公園の整備・クリエイティブな経営によって周辺店舗のテナント構成は大きく変わり、エリアの価値も向上しました。更に道路空間も魅力的なコンテンツ・プレーヤーによって素敵な場になってきています。
大きなプロジェクトでなくとも、そのまちの文脈に即した地域コンテンツ・ポテンシャルとリンクし、ホンモノの地域プレーヤーとビジネスベースで本気になってひとつずつのプロジェクトを試行錯誤していけば、可能性は見えてくるはずですし、「え?」案件にはなり得ません。ましてや「魔界への入口」へ踏み込んでしまうことはなくなるはずです。

まちみらいでは、これからもひとつずつ丁寧にいろんなプロジェクトを皆さんと構築していきたいと考えています。

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