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神隠し、約束を舞った、恋探り。~二枚目天狗たちの花嫁争奪戦~ 第二話

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

第2話「彼」


 私が早とちりしてただけで花嫁争奪戦と呼ばれるものは、本来ならまだ始まっていないらしい。
 だけど、厳しい天狗族の掟に定められている通り、花嫁争奪戦を前にした三人には、何か熟さなければならない大切な役目があるらしい。
 そして、争奪戦の景品の花嫁である私はというと、彼らが相模坊さんと何かしているその間、特に何もすることなく暇だった。
 着替え用の可愛い着物を小天狗と言われる相模坊さんの家来に何着も用意して貰ったけど、一通り袖を通して試してみても、私への呼び出しは待てど暮らせど来ない。
 自分が暇だからと言って忙しそうに広い廊下を歩き回っている小天狗たちなんかに話し相手をさせるのも、なんだか気が引けてしまった。
 なので、廊下を歩いていて、偶然見掛けた貴登さんに「仕事あるのに……」とブツブツと愚痴られながらも、私は城の堀を越えた向こうにある森に、連れて来て貰ったのだった。
 とは言っても、本当に城の堀のすぐ傍。
 ここからが森の始まりですよという辺りで、呆気なく下ろされてしまう。私はかくりよの地は初めてなので、どこへ行こうが物珍しいことには変わりないことなんだけど。
「今呼ばれたから、一旦帰って来る。良いか。かくりよでも、天狗族に敵対するあやかしは数多居るから。この辺は相模坊の縄張りだが、絶対に絶対に。遠くに行くな」
「そう、念を押されると……逆に、行きたくなっちゃう」
 いわゆるお笑いの世界で言うところのボケの振りにも似た貴登さんの言葉にツッコミを入れると、吹雪が起こるかと思えそうなほどに冷たい視線を無言で返された。
 
「ごめんなさい。ちゃんと、言われた事は守ります」
「よろしい。済ませてから、すぐに戻る」
 姿勢を正して神妙な表情を見せる私に貴登さんは一度頷き、黒く大きな翼を使ってふわっと空へと舞い上がった。
 そういえば、貴登さんも城で見掛けた時は翼がなかった。
 ということは、あの時に人間そのものに見えた花婿候補だという三人の天狗だって、昨日は大きな翼を仕舞っていたのかもしれない。私にはわからない、不思議な力で。
 緑深い場所に特有の、湿っぽい空気の中に草の匂い。全く人の手など入ったことのない森。木の葉の合間から、こぼれる優しい光。これはもう、癒されるしかない。
 ストレス社会には、こんな森の空気が常に必要だと思う。
 遠くに行かずにこの辺りなら歩いても良いと言って居たし、さあ歩き出そうかと思ったところで、近くにあった木が何故か倒れた。
 振り返って立ち止まり、けど特に何かある訳でもない。
 少し不思議には思ったものの、まあ良いかと歩き出した。すくすくと伸びていた木だって、いつかは年齢を重ねてこうして倒れることもだろうし。
 私は突然の倒木を気にすることもなく、森の奥の方向へと進んだ。
「わあっ……なんか、かわいい」
 視界が開けた瞬間。思わずそう独り言を呟いてしまうくらいに、五分も歩かない内にすぐ近くに可愛らしい花畑のような場所に辿り着いた。
 とは言っても、華やかな色を計算通りに配置しているような人口の花畑ではなく。背の低い野草の小さな花がチラホラとまばらに生えているだけ。けど、それもまた、素朴な様子でなんとも可愛かった。
 また、ここで踊ってみようかとなんとなく思ったのは、相模坊さんが言っていた宴の席でのことを考えて少し練習しようかなという、特に理由なんて何もない単なる思い付きのことだった。
 こうしてようやく一人だけになれたのも、大きいかもしれない。
 仕事から戻って来た貴登さんには見られてしまうかもしれないけど。まあ、彼にならもう既に見られている訳だし、今更恥ずかしがるようなことでもない。
 すうっと深呼吸をして、気持ちを整える。
 踊りに入るその瞬間に、私は私ではなくなる。踊りの中に出て来る、登場人物となるのだ。
 なんとも可愛らしい大正っぽい柄の着物を今着ていて、踊り用のものではないけど普段の服より、やりやすく踊りやすい。
 気分が乗って、今踊っている音楽を口ずさもうかとしたその時に、ズサッと何かが滑り落ちる大きな音がして、私は驚き後ろを振り向いた。
「……え?」
「そんな、はずはない……そんなはずはないんだ。絶対に」
 呆気に取られた私の視線の先にそこに居たのは、昨日会ったばかりの花婿候補の一人、鞍馬山の那由多さんだった。整った顔を顰めて、額に手を置き苦悩するかのように頭を振った。
「那由多さん? こんにちは。あのっ……何か、あったんですか?」
 とても平常通りとは言えない彼の姿を見て、私は体調が悪いのかもしれないと思って首を傾げた。
 那由多さんは私の問い掛けに、はっとして大きく目を見開いてから首を横に振った。
「……済まない。君には何の、関係のない。俺の事情だ。君は踊りが、本当に上手いんだな。驚いた。年齢も聞いていたし、そこまで上手いとは想像していなかった」
「ありがとうございます。幼い頃から始めて、こうして踊るのがとても好きだったもので、習い始めてから、もう十何年にも経ちます。それだけ続けて踊っていると、例え凡人だとしても、少々見られるものになるものですよ」
 謙遜は日本人では美徳とはわかりつつ、そこそこ努力をした自覚のある現代っ子の私は「私なんて」は、なんとなく言いたくない。それを言ってしまうと、これまでの自分の頑張りをけなしてしまっているようにも思えてしまうから。
「いや。とても、素晴らしかった。俺は驚いて、目を奪われてしまった。それはそうと、実は俺たち二人はまだ会ってはいけない事になっているんだ。俺とこの場所で会ったことは。どうか、内緒にしておいてくれ」
 那由多さんは難しい表情をしつつ言い難そうに言ったので、私は今日彼や彼の他の二人に会えなかった理由に合点がいった。
「あ! そう……だったんですね。私は三人は何かをしなきゃいけないので、まだ会えないって言われてて……大丈夫です! 他言は、絶対にしませんから」
 約束するという気持ちを出したくて私が何度か頷いて大丈夫だと示すと、那由多さんは少しだけ笑ってくれた。
 それは、思わず呼吸を忘れそうになるくらいに……素晴らしく可愛い笑顔で。彼もさっき言ったけど。目を奪われてしまうという言葉の意味は、こういう事なのだと理解することが出来た。
「ありがとう。ここで、俺が一人で逃げていたことも、どうか内緒にしといてくれ」
「逃げて……いたんですか?」
 私は、彼の言葉に首を傾げた。
 なんていうか……本当に見た目で判断して申し訳ないけど、三人の中だとそれは一番伽羅さんがそれをしそうだなって思ってしまったから。なんとなくの、パッと見た初対面の印象で。
「……多聞も、伽羅も。幼い頃から知っていて別に嫌いではない。けど、君をどうしても嫁に得たいようで……他に対する、敵対心が凄い。一緒に居るのがどうも疲れて、適当に言って抜けて逃げて来た」
「那由多さんは、そうじゃない……みたい、ですね」
 花嫁争奪戦というのだから、争うのなら彼にその気がなければ、参加者であることは疲れてしまうのかもしれない。
 那由多さんはこうしてまじまじとして見れば、特上の外見を持ち私の好みにはバッチリなんだけど。
 向こうにその気がないというのを理解してしまうというのは、なんとも切ないものだ。
「……いや。それは、違う。どうか。誤解をしないでくれ。俺も、君を花嫁に得たいと思っているし……それに、君以上の誰かは考えられなくなった。今は」

◇◆◇

「……え?」
 那由多さんの唐突な言葉を聞いて、私は目を瞬いた。
「君に対して、何も言わないままであれば、誠実ではないと思うから……最初に、これは言っておく」
「え? えっと……」
 戸惑う私を見て彼は、大きく息をついて言葉を続けた。
「俺には、ずっと忘れられない人が居た。だが、その人は既に五十年前に亡くなってしまった。だから、今ではもう、それは決して叶わぬ恋となった」
 那由多さんの表情は、真剣だ。これを告げることによって、過去を乗り越え前に進みたいと言わんばかりに。
「その時には大きなかくりよの戦乱があり、彼女もその時に亡くなってしまった。昨夜伽羅が言ったように天狗族を纏める大天狗の一人の息子の俺は、後始末にも忙殺された。これまで婚期が遅れていたんだ。だが、親父とお袋からは、そろそろ結婚して子どもを得るようにと、何度もせっつかれていた。俺の母親は、もともとが君のように攫われた人の娘だったから……今回の花嫁争奪戦にも、参加するようと半ば強制の進言して来たんだ」
「そう。だったんですね」
 恋した人が亡くなってしまったのなら、その悲しみは如何ばかりか。長い間、忘れられなかったとしても、それは無理はない。
 今まで誰かと恋をしたことのない私には、絶対に理解することの出来ぬ彼の中にある深い悲しみ。どことなく物憂げだった彼の表情は、その悲劇が表れて居たのかもしれない。
 ここで何を言うべきか、何も思いつかない。言葉を詰まらせた私に、那由多さんは言った。
「最初……昨日までは、乗り気ではなかったことは認める。だが、俺は誰かを嫁にするのなら、絶対に君が良いと思った。これからは、俺の心を尽くして。それを、君にわかって貰いたいと思う」
 那由多さんの目は、真剣だった。前に恋した人の死を乗り越える覚悟を、それを今ここで決意したのかもしれない。
 争奪戦を勝ち抜き、私を花嫁とするために。
「あの……私って、そんなに良いものじゃないと思います!」
「なんだ……?」
 照れ隠しにも似た面映ゆい気持ちが湧き上がりいきなりそう言った私に、那由多さんは面を食らったように驚いている。
「正直に……言ってしまえば、本当に怠け者だし。部屋だって汚いし……長く続いた趣味って言えば、日舞のひとつだけだし。ここに来たのだって、今まで恋をしたことなくて……恋してみたいなっていう、単なる好奇心と……それに……」
 苦しい胸の内を明かしてくれた彼に、まるでお返しのように自分側の事情を明かそうとした私はそこまで言って止まってしまった。今更ながら、これで彼に引かれちゃったら勿体なさ過ぎるって思ってしまったからだ。
「それに……?」
 先を促すように那由多さんが言ったので、私は言い淀んでいた言葉の続きを白状する事にした。
「……長期休暇明けに……数ヶ月前に入ったばかりの会社に、行きたくなくて……いわば、逃げでここに来たんです。ブラックというか……あの、パワハラとか嫌がらせなんかも日常的な会社に入ってしまって。でも……親にも絶対大丈夫だからと啖呵を切って都会に行った挙句に、すぐ逃げ戻って来るのかって、情けないって思われたくなくて……逃げたいけど逃げられないっていう、板挟みっぽくなって……思わず、貴登さんの話に飛びついて、ここに逃げて来ちゃいました」
 この事情って何も馬鹿正直に言う必要なんてなかったかもと、考えの浅い自分に深く後悔しつつ背の高い那由多さんを見上げた。
 那由多さんは、すっきりとした身体に添う黒い服に、黒い髪に瞳。色合い的に、少し鴉っぽいなって思いながら。そういえば、彼の実家である鞍馬山は烏天狗で有名だったはずだ。
 緊張しながら、那由多さんがどう反応をするか待つ私に彼は吹き出して楽しそうにして笑い声をあげた。
 私が目に見えて安心しほっとした様子になったので、それもまたおかしかったのか。那由多さんは、肩を震わせつつ言った。
「いいや……それは、俺から見れば逃げてはいない。天狗の花嫁になるために、自分の意志でかくりよまで来てくれたんだろ? 全く大した問題ではないし、俺は気にしない。俺の花嫁になるために、ここに来たと思えば良い」
「……あの、まだ……決まって、ないですよね?」
 自慢ではないけど彼のような素敵な男性に、ここまで露骨に好意を出されたことのない私は、自分が今いる状況を考えつつしどろもどろになってしまった。
 こういう立場になりたいからと、このあやかしたちの住まうかくりよにまで来たというのに、自分に向かって美形が直接的に甘い言葉を吐くという状況の破壊力は想像より数倍凄まじかった。
「そうだったか? まあ、あいつら二人より、先に君を落とす事が出来たら、俺の勝ち。それが、花嫁争奪戦の掟だ」
 そうして、那由多さんは、またあの可愛らしい笑顔で笑った。
「……あと、不用心な真似をした貴登には、俺の方からもよくよく注意しておくが……聖良さんは、一族の集落が近くにあるとは言え、絶対に森の中では一人にはならない方が良い」
 彼の告白ともつかない甘い言葉を聞いて、何とも照れくさい形容しがたい空気のままで二人歩いていた。晴れた陽は暑くもなく寒くもなく。気持ちの良い爽やかな森の中で、那由多さんは私の隣を歩きながら、そう言った。
 私がびっくりして彼の顔を見上げれば、凄く真面目な顔つきだった。冗談を言っているような雰囲気でもない。
「え? けど、ここは相模坊さんの居城にも近いし……城からそこまで離れなければ、問題ないって、貴登さんが……」
 私がさっき貴登さんから言われた事をそのままを繰り返すと、那由多さんは、はーっと大きく溜め息をついた。
「貴登の言っているそれは、神通力を少しでも聖良さんが持っている場合だ。人の子で、例え小さな獣だとしても対抗する術がないだろう。さっきも、俺が居なければ危ないところだった。あいつは、優秀なんだが本当に、うっかりしているところがあるから……後から、上に報告してきっちりと注意しておく」
「……さっきも?」
 私が引っ掛かった彼の言葉に不思議そうな顔をすれば、那由多さんはしまったと言わんばかりの狼狽した表情になった。きっかけはわからないままでも、私に心を許してくれたのか表情を動かすようになれば、変化が豊かでわかりやすい。
 彼はこほんとわざとらしい咳払いをして、踊っていた私を見て木の枝から落ちてくるまでの経緯を語ってくれた。
「貴登と、森に来たのは……確かに見た。さっきも説明したが、俺たちはまだ会わないということになってるから。挨拶もせずに去ってもおかしい。ここで姿を見られたらいけないと思って、俺は咄嗟に隠れたんだ。だが、貴登が君一人を残して去ってから、まさか無防備に森の中に居させる訳にもいけないと思った。あの木が倒れたのは、小妖魔が聖良さんを狙っていたから。俺が木を倒したら、驚いて慌てて逃げて行った。あの程度であれば命の危険はないにしても、人の子と見れば悪戯を仕掛けて来ようとする奴は多い。本当に気を付けた方が良い」
「……ありがとうございます」
 子どもに言い聞かせるようにして、那由多さんはそう言った。先ほど不自然に倒れた倒木を思い出してみれば、あの時妖魔と呼ばれる存在が自分のすぐ近くに居たと思うと急に怖くなってしまった。
「……貴登は優秀で良い奴なんだが、少し抜けているところがあるから。これで、君がもし怪我をしていたら、監督責任のある相模坊並びに俺たちも、あいつを許す訳にはいかなくなるから。一族の掟は厳しい。貴登のことを思うのであれば、君も安全には気を付けてくれ」
 貴登さんをやけに親し気に呼び捨てをするんだと、私は不思議になった。彼ら三人はかくりよでも離れた場所にある天狗族の城に住んでいるはずで、鞍馬山と言えば確か京都だった。
 現実世界とかくりよは、光と影のような存在らしい。彼の住む所に行くには海だって越えるし、距離だってかなり遠いはずだ。
 けど、この辺りに住んでいるはずの貴登さんと那由多さんは私が気が付くくらいなんだか親しいらしい。
「貴登さんと、親しいんですね」
「あいつは長く生きた獣がその姿を転じて、木の葉天狗になった天狗だ。狼の化身の中でも、特に神通力が高い。なので、相模坊さまにより修行するように言われて、俺たちのような生粋の天狗族と一緒に修行した事がある。それに、一時期訳あって親父の治める鞍馬山にも居たことがあったから、俺もかなり気心は知れている」
 距離があったはずの貴登さんと那由多さんの意外な繋がりに私は何度か頷きつつ、微笑んだ。
「私は貴登さんに、かくりよに連れて来て貰って……なんだが、何処かで会ったことあるなあって思ってんです。不思議ですよね。天狗に会ったのは、あの時が初めてのはずなのに」
 那由多さんはそれを聞いて、少しだけ驚いた表情になりつつも笑った。
「……人の子が貴登のように、獣顔を持つ二足歩行の天狗に会えば、そうそうの事では忘れることはないと思うが。まあ……鬼族の百鬼夜行に混じるなら、あいつはまだまともな部類に入るだろう」
「百鬼夜行……」
 その単語自体にはなんだか聞き覚えがあるものの、何故今ここでその話が出て来たのかと首を傾げれば、那由多さんは理由を説明してくれた。
「天狗族と同じように、かくりよには鬼族も居る。彼らは年に一度ある祭りで、一族の里を思い思いの格好で練り歩くんだ。鬼族は色んな種類の鬼が居て、百鬼夜行は見応えがある。貴登のように獣顔をしているだけでは、あれの中で目立つのは難しいだろう」
「そんなに……」
 いかにも見てみたいと興味津々の私の目に気が付いたのか、言いたい事を察してくれた那由多さんは苦笑した。
「ああ。もし、良ければ連れて行こうか? ちょうど、百鬼夜行の季節だ。外出する時に、連れて行こう」
「ありがとうございます」
「そんなに……きらきらした純粋な目で見ないでくれ。俺はそこそこに、悪どい男だ。君と二人で外出する約束をするために、興味がありそうな事を話題に出して、それで気を引いた」
「悪どい……?」
 彼の言っている意味が、わからない。これまで、那由多さんは私に対してとても親切で、どこをとっても優しかったからだ。
「そうだ。天狗の花嫁争奪戦では、すべて花嫁が主導権を握る。俺たち三人は試されて、君に選ばれるように乞わねばならない。だから、君とどこかに二人で外出する機会は、またとない良い機会になる。君が俺の思惑を聞いても、嫌でなければ」
「……それを言っちゃったら、悪い男になり切れてないですよ」
 別に言わなければ、私はそれをわからないままなのに。あまりの真っ直ぐな正直さに私が苦笑すると、那由多さんは近くにあった木を見上げた。
「いいや。俺は、君を手に入れたい。どうこう思い悩んでだり、なり振りを構っている場合ではないことは、わかっている。どうしても……未来においての不安な要素は、残したくない。絶対に……今回は、失敗したくないから」
 彼の視線を辿れば、これまでに見たことのない不思議な形をした一本の松があった。うねうねと枝は折れ曲がり、幹の部分が何個も瘤のように盛り上がり、森の中にある訳だから庭師に世話をされている訳もないんだけど、何もかも自然なままだと言われても奇妙な松だった。
 隣で何かを考えているような那由多さんは、何か隠していることがあったとして、それを未来の私に知られたとする。そして、そうなったことによって自分に悪印象を受けることを、事前に出来るだけ防いで置きたいらしい。
 彼が先ほど言った事に関しては私は多分、聞いてもなんとも思わないとは思うけど。
 でも、世の中には動かせない過去を、許せないと考える人は居るかもしれないし。私自身が世の中の基準ではないことは確かだし。自分の存在を知らなかった時代だとしても、過去を気にする女の子だって、どこかには居るのかも。
 そして、争奪戦の開始前から私に嫌われたくなくて好かれたいと思っているのなら、未来の不安要因は取り除いて置きたいと思っているのかもしれなかった。
 那由多さんの行動は、色んな見方があるだろう。黙ったままの方が良かったとか、もっと機会を待ってくれれば良かったとか。
 けど、私は未来嫌われてしまう可能性を取り除きたいという、そこまでしてくれるという必死さを感じて、やっぱり胸はときめいた。
 私たち二人は昨日初対面で、こうして森で会ってから、まだ一時間も経っていないというのに。
 そう。これがもし乙女ゲームであれば、好感度は爆上がり。但し、本来ならば逆でヒロインっぽい立ち位置の私側の話だけど。
「……真面目な性格なんですね。過去の恋は、今の私たちにはあまり関係ないのに」
「もし。俺が結婚するなら、伴侶となる人は真面目な性格が良いと思う」
「それは、確かにそうですけど……キャッ」
 ゆっくりと歩きつつ目を引く異形の松を見ていた私は、完全に気にもしてなかった足元で何かに躓いた。バランスを崩して倒れ込み、両手をついてなんとか耐えたものの手をついてしまった場所が悪かったのか。
 折れてしまった鋭い木の枝のようなもので、ざっくりと派手に手のひらが切れてしまったようだった。開いた傷から血が湧き上がって来て、これは深くまで切ってしまったと思った。治癒には、長い長い期間が掛かってしまうはずだ。
「大丈夫か? 見せてくれ」
 貴登さんを見掛けて思い付きでの外出だったから、何も持たずに出て来てしまった。いつもなら、携帯しているはずのハンカチも持っていない。
「すっ……すみません。私。本当だったら出て来る予定ではなかったので、ハンカチも持ってなくて!?」
 那由多さんは、傷をじっと見つめた後、とんでもない行動を取った。
 私が声もなく、目を見開いて驚いてしまったのは仕方ない。那由多さんは、ある程度の土を払った後に私の傷に舌を這わせたからだ。ぬるりと軟体動物を思わせる感触が、開いた傷を通り抜けた。
「ちょっ……ちょっと待ってください!」
 結構な深い傷は「ツバつけたら治る」というような、そんな生易しいものではなかった。しかも、誰かの血は舐めて良いものではない気がする。感染症の問題などもあって。
 手を引こうとしても、離して貰えない。傷を負って敏感になっている手のひらを、ぬるぬるとした熱い舌が舐めている。こんな時だというのに、背中に痺れるような何かが通り過ぎた。
 那由多さんは、別にそういうつもりではない。はずだ。一人だけ勘違いしている現状が居たたまれなくなって、私は強い力を込めて腕を引き戻した。
「……っえ?」
 パッと自分の手のひらを見て、また驚いた。さっき、ざっくりと派手に切れて怪我をしたはずの手のひらには、見事に傷が塞がっているのだ。
「咄嗟に治癒したから、説明が出来てなくて、悪い。痛みを感じる前にと、思った……人と天狗の体液が混じると、こうなる。今聖良さんの中に入った俺の神通力は少量だが、ほんの少し寿命も延びているはずだよ。そういうものだから」
 那由多さんの表情は、どこか照れくさい。
 赤くなっているようにも、見える。私も同じように、というか彼より遥かに真っ赤なはずだ。だって、身体のどこかを誰かに舐められた覚えなどないのだから。
「……寿命まで……」
 私は彼の言葉に呆気に取られたまま、手のひらを見つめた。
 そういえば、昨夜寿命の話をした時に、多聞さんは天狗と交じり合えば彼らの神通力が私の身体に入って寿命が延びるという話をしてくれた。まさにこういうこと、だったんだ。
 貴登さんと会って人生で初めて天狗の姿を見ても、特に驚きもしなかった私だというのに。摩訶不思議な出来事に触れて、驚きを隠せなかった。
 那由多さんは、神通力という不思議な力を持つ天狗だった。それはもう知っている、ことなんだけど。自分の中での理解は、まだ追いついてはいなかった。
「ああ。驚かせて、すまない。後、君を迎えに来たらしい貴登は、実は一度様子を見に来たが、俺たちの様子を見て帰って行ったようだった……そろそろ夕餉の時間だから、帰ろう」
 不思議な方法で治癒して貰った手を、意味なく何度も握っては開いてを繰り返してしまっていた私は、那由多さんが言った言葉に慌てて頷いた。

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