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食と韓国語・翻訳ノート13:조선미(朝鮮米)

有名な映画の、ずっと気になっていた場面。そう、この場面だ。初めてアニメーションで見たときにどきっとして、あまりに一瞬だったので、また巻き戻して確認した。

『この世界の片隅に』は、劇場では見られず、しばらくたってからDVDを借りて見た。メディアの評判もいろいろ見たけど、あんまりここに触れてくれなかった気がする(町山智浩さんが言っていた気もする)。物語のクライマックス、玉音放送を聞いて、初めてすずが怒りをあらわにするシーン。そこに短いカットで、太極旗がひるがえる。

「飛び去っていく、うちらのこれまでが。それでいいと思って来たものが。だがら我慢しようと思ってきたその理由が」「海の向こうから来たお米、大豆、そんなもんで出来とるんじゃな、うちは」「じゃけ、暴力にも屈せんとならんのかね。なんも考えん、ぼーっとしたうちのまま死にたかったな」
――映画版『この世界の片隅に』(2016、監督:片渕須直)

わたしも原作漫画を確認した。台詞が違っていた。

「この国から正義が飛び去ってゆく」「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなあ……」
――こうの史代『この世界の片隅に』(2011、双葉社、原作漫画)

この改変が、批判されているとは知らなかった。「暴力で従えとったいう事か」を削除した、という理由で。この台詞はたしかに戦後的だし、それまでのすずさんに比べて、急に理屈っぽい言葉かもしれない。でも、わたしが注目したのは、原作を見たとき「あれ、ないぞ」と思った部分、片淵監督が省いた部分ではなくて、追加した部分だった。

海の向こうから来たお米、大豆、そんなもんで出来とるんじゃな、うちは。

この部分が、「暴力で従えとった」に代わって挿入されている。ということは、「暴力」の中身を、すずさんなりの言葉で具体的に言ったことになる。それまでの場面、物資の欠乏のなかで、懸命に工夫をこらして家族の食事を用意する姿が描かれてきた。その配給で得たわずかな物資さえも、「海の向こう」から来たものだった。

すずさん自身はお米を炊いておかずを作って……ということをずっとやってきて、そこに彼女のアイデンティティがあった訳です。ならば、ごはんのことで原作のようなことを、彼女のことを語れないかと考えたんですね。
実際、その当時の日本本土の食料自給率ってそれほど高くなくて、海外から輸入している穀物がなければやっていけなかったんですよ。そういうのがわかると、やっぱりすずさんは生活人だから、あのような反応をしたほうがいいと思ったんです。

自分の小さな体を支えるエネルギーやたんぱく質に、帝国の経済が刻印されている。日本人が自力で戦ってきたなんて、うそっぱちじゃないか。これはかなり、どきっとする話だ。しかも、「だから、暴力に屈する」ことになるという。わたしは映画の台詞のほうがどきっとする。

ことさらに「収奪論」を言いたいわけでもない。しかし、あのころ、ほとんどの日本人が朝鮮米で空腹の一部を満たしていた。わたしの祖父や祖母も食べていた。産米増殖計画で朝鮮の農民が作った米は、相当部分、日本産の米に混ぜられ、流通し、消費されたという。だからだれも、食ってないとは言えない。ほとんどの米が内地消費向けに生産され、港から運ばれていったので、朝鮮の農民は満洲の粟を食べた。満洲の農民は何を食べたんだろう。

戦争とか植民地とかとは関係なく、今も、わたしたちは自分が食べるものさえ、わたしたちだけではまかなえない世界に生きている。わたしの知らないだれかが作っている。ごはんのなかには不平等な力の関係がある。だいじなのはその想像力だ。

家の周りは最近おしゃれなカフェだらけになっている。だれもコーヒー豆なんか作ってないのに、だれもがコーヒーの味にうるさくなっている。半分はかっこつけてるだけに見える。自分の金で飲み、食うことに文句はない。けど、自分の口に入れるものと、それにかかわる人のことに無知で無関心なのは、かっこ悪い。

※大学院の後輩、イ・ミンジェ(이민재)君は、家族から離れ、朝鮮米をテーマに日本で研究に励んでいる。がんばれミンジェ。


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