見出し画像

自分の弱さ。家族のかたち。

私は良い子じゃない。良い娘じゃない。家族なんて、鬱陶しいしがらみだ。

⚠きっとイライラすると思うので、読むことをおすすめしない。
親族にもこのnoteが見つかったら絞首刑にされそうだが、自分のために残したい。

「家族」というテーマに”挑む”

 私にとって「家族」というものは、この世で一番避けたく、嫌悪感しか抱かない話題。しかし「いつかは向き合わねばならない」という危機感は、四六時中、頭の隅に居座っている。

 9月1日現在、私は一時的に家族のもとを離れて生活している。だから、その隙に家族に向き合ってみることにする。”理想的な娘になる”的な抱負を掲げる自信は無いが、本稿が我が「家族」のかたちをより良くするための手助けになればと。

 決して同情を買いたいわけでもないし、お叱りも求めていない。わがままnoteになってしまうが、「このままじゃいけない」という危機感から書いていることをわかって欲しい。

崩壊のはじまり

 いきなり重い。でも「家族」というものに嫌悪感と違和感を抱くようになった根源を探りたい。自分でも振り返りたくはないが、葛藤しながら筆を進める。

 私は、小学1年の頃から母子家庭で育った。法律上はもう少し後からだが、小学1年の時に父親の単身赴任(to沖縄)が始まり、当たり前に”父親はいないもの”であったため、実質そのころから母子家庭だと言える。「離婚」これこそが私の家族崩壊の大元。

 単身赴任になる前、つまり父親がいるとき、父親は「恐怖」だった。稚すぎてうろ覚えではあるが、例えばこんなエピソードが原因として有る ↓

  • 補助なしの自転車の練習に付き合ってもらって(という表現はなんだか違うような気がするが、稚ながらにそう感じていた)、なかなかうまくいかないことを怒られ続け、大泣きして母親に助けを求める。

  • 運動会に来てくれても、起きている姿を見たことがない。ブルーシートの上で大の字。※殆どのイベントは母しか来なかった。参観した父親にプレゼントを贈るという地獄の父の日プログラムも母が来た。恥ずかしくってたまらなかった。それはきっと母も同じ。

  • 私と妹が二階で寝ている深夜、酒に酔って母と口喧嘩をした父親が、リビングのテーブルを振り回し窓から庭へぶん投げる。窓ガラスが割れる爆音で飛び起き、恐怖におののきながら、大号泣しながら階段を降りた。妹もギャン泣き(でも妹は記憶が無いようでよかった)。これを書いている今、なぜかボロボロ涙が出てきて驚いている自分がいる。


 こんなのばかりで、父親から愛情をもらった記憶はもちろんのこと、遊んでもらった記憶は一切ない。”怖い”、”母を困らせる”、”居ない・来ないのが普通”。今思うと、ひでぇ話だ。

 父親に対してそんな印象しかないまま、両親が離婚した。学校などで支障がないように、名字は父親の姓のままになった。離婚する前、母が言い出しづらそうに「パパと別れてもいいかな」ときいてきたことがある。母を困らせる父親アンチだったので、もちろん私達姉妹は快諾。「パパのところに行くこともできるよ」と言われたが、選ぶわけがない。

ちょ、思った以上にこの話を振り返るのはつらい。涙がとまるまで休憩。


 失敬。で、それ以来父親には会っていない。急に平穏な日々が訪れた。
…と思った矢先、不幸がふりかかる。母方の祖母の携帯を勝手にいじっていたら、母から祖母への離婚相談のメールを発見してしまった。父親は妹が生まれた時から離婚を考えていたこと、母が弁護士に相談していること、養育費の話などが記されてあった。そのメールで記されていた、父親の”離婚したい理由”は、全然意味が分からなかった。それは稚さと、その文の脈略のなさからくるもの。でも、なんだかわからないけれど妹が関係しているのが嫌だった、辛かった。

 「このメールを〇〇(私)が見るといけないから、見たらすぐ削除してね」と、メールの最後に母が書いていた。それなのに見れている。メールを見てしまったことは誰にも言っていないが、それ以来、心の何処かで”メールを消していない祖母のおかげで、私は傷を負った”と思うことになる。

我慢のオンパレード

 親戚がみな、車で10分弱の近さで住んでいるため、父親がいなくなって母親がフルタイムで働くようになった分、みんながお世話しに来てくれた。小学校から帰ったら当たり前に祖母か祖父か叔母がいる。習字の代表や縄跳びの選手になって夕方まで残る日も、迎えにきてくれるのは祖母か祖父。防災訓練の迎えも同様。

 毎日毎日会うもんだから、いつの間にかありがたみが薄れていった。祖母との口喧嘩も多くなった。言いはしないけど、メールのことも引きずっていたから、反抗期の矛先が祖母に向いたのだ。態度の悪さから泣かせてしまったこともある。

 小学校中学年頃、周りに鍵っ子が現れ始めた。羨ましかった。「もう来なくても大丈夫」「自分でできる」と必死に伝えても、「妹がまだ小さいんだから」とか「何言ってるの。何もできないでしょう」と、鍵を持たせてもらうことも、自立の一歩を踏み出すこともできなかった。そうした家族、親戚の窮屈さがとても嫌いだった。
 大学生の今でも、子供だと思われているのか過度に介入される感覚なのである。例えば、「〇〇持った?」「〇〇しなね!」と確認してくれる作業が小学生の時からあったが、もう私は大学生だ。身の回りのことくらい自分でできる。確認されたところで、既に把握済み、完了していることの方が圧倒的に多い。そのため、”私を思って”というよりも、言うことで安心したいのでは?と考えるようになってしまった。

 そして高学年になると、周囲の女子がファッションブランドに目覚め始めることに疎外感を感じていた。①もともと雑誌に興味ないこと②我が家にお小遣い制度がないこと③母は服すら買ってくれないから自分のお年玉で買わなければならないこと、の3つが原因でブランド品には到底手を出せず、女子たちの会話についていけなくなった。

※お小遣いがないのにどうやって金を手に入れていたかと言うと、勉強の成績や課外活動の「賞」に対する祖父母からの報酬が収入の全てだった。常に臨時収入制、成果主義。親戚がみな頭が良かったり、運動神経がよかったり、ピアノの才能があったりしたため、何をするにも「成績を残す」という無言の圧があった。「勉強しなさい」ということばを何度聞いたことか。お金欲しさではなく、"親族に恥じないようにやらなきゃ"で動いていた。すごく負担ではあったけど、おかげで賞状は飾りきれないほどある。

 話を戻す。当時は、周りについていけなくなるのが怖かった。だから季節の終わりにブランドのセール品を買っていた。「なんでうちにはこんなにお金がないの!なんで服も買ってくれないの!」と言ったことがあると思う。そんな無理は必要だったのか?と今では思うが、カーストもそこそこあったからクラスで浮くことが何よりの恐怖だったのである。

 そんな家庭内状況と学校内状況が中学まで続き、なんとなく、どこにも居場所が無いと感じていた。

 でも、周囲と比べて実感する我が家の貧しさ(母は、食は充分に与えてくれたので、食に関して貧しいと感じたことは無い。)に対する反抗心は芽生えつつも、母に経済的負担をかけたくない気持ちはずっとあった。たまの外食は、とにかく一番安いものから選んだ。自然とその癖がついて、別に苦ではなかった。お年玉に余裕があるときは、自分が食べたものの半額を母に差し出した。でもその傍ら妹が純粋に値段を気にせず食べたいものを選ぶ姿を見て、「なんだこいつ。無神経な。」と思っていた。長女の気遣いも知らないで…泣。彼女のその脳天気なスタンスは18年間変わってない。もはや誇れるよ。姉の私は、「自分は我慢して彼女が自由にして平均並と並だったらまあ良いか」と思えるようになったよ。
※妹には、親族で唯一心を開いている。ムダに干渉してこないどころか私に興味がないから。

 高校受験、志望校は有無を言わせず公立。私立なんか言ったら破産することは分かっていたし、近くに私の頭で入れる公立高校があったので、必然的に。高校生活では、何枚も書類を書いて奨学金を申請することが多くなった。大学受験の時期も、各大学の「予約奨学金」や国の奨学金の申請に追われ、その間は勉強ができなかった。「予約奨学金を確保できたところで受からなかったら元も子もない。なんで皆が勉強している時に私はこんなこといしなきゃいけないの。すべて離婚のせいだ。」とブツブツ言いながら仕方なく書類をつくった。結果、予約奨学金はすべて選考通過した。でも、通ったどこの大学も試験には受からなかった。ははは、まさかの最悪パターンだ。

 結局、一切予約奨学金のない、志望校のなかで一番学費のかかる大学に進学することになった。最終的には「学費はママがなんとかするから、好きなことをやりなさい」といって送り出してくれた。その時はまだ、「高い学費」というだけで数字を知らなかった。怖くて見れなかったのだ。

 後に学費を知ったときには凍りついたよね。だから一層、奨学金の確保に精を出すようになった。国の奨学金、学業奨励奨学金、財団奨学金、旅館奨学金…など。これまで何度書類を書いて、何度面接したかわからない。教材費を含めた大学関係の費用およびサークルなどの課外活動では一切お金を出してもらわない。バイトもしているし、大学に入ってからは「我慢」と思うこともなくなったが、友達が「自分では買えないから親と買いに行こ」みたいなことを言うと羨ましくはなる。

っとまあ、私的には経済的にも精神的にも不自由さを我慢する時代が多かったのである。

血のつながりという呪縛

 その「私的には我慢していた」感覚と、その我慢の苦しみを吐き出す場所が無いが故に、苦しみの原因を「母が結婚相手の選択をミスり、離婚して金のないひとり親になった」ことにあると思ってしまう非常識な考え方があるので、以下のように母や親戚に”母を支えること”、”協力すること”を強要されるのがずっと嫌だった(親不孝ですみません)。

「お母さんしかいないんだから支えなさいね。」
「ちゃんとお手伝いしなさいね。」
「こんなに健康なのはお母さんのおかげだよ。感謝しな。」
「ありがたいと思いなさい。」
「家族なんだから支えるのが当たり前。」
「家族なんだから仲良くしないと。」
「家族なんだから〇〇…」

 上記のようなことを言われることに関しては、いつまでも生活面で自立しない自分・感謝を伝えられない自分が100%悪い。自己中心的なのが自分の悪いところであることは分かっている。非常に後ろめたい。

 しかし、分かっていても、都度何かを言い訳にして一向に改善できない私は、高い学費を払ってもらい生活もすべて支えてもらっている大学生活で、母との関係を急激に悪化させてしまった。この一年で、母から「はやく家を出てって。もう我慢できない。」と言われ、私も「こんなとこ居てたまるか」という会話が3回くらいあった。お金があれば今日にでも家を出たい。

「みんなに見せてやりたいよ、本当のあなたを。」

 母はよくこれを口にする。でも、母と反りが合わないだけで、「外の自分が偽物/家での自分が本物」ではない。なぜ母が二者択一で考えるのかわからない。どっちも本当の私で、むしろジレンマに苛まれて「本当の私で居られない」のは家での方だ。

 母とうまくいっていない原因は恐らく、
①母と自分の意見・感覚が一切合わないことに気づいてしまったこと。
②「家族」像への疑問だ。
※③であるはずの”自立できていない”はわかりきっているので、割愛。結論で触れることにする。

 ついこの間も、「なんで母親にそんな態度なの?家を出ていくまでの間は仲良くしたいのに!!」と言われた。ただ血が繋がっているだけなのに、なぜ”仲良く”しなきゃいけないのかわからない。合わないから出ていけとなっているのに、その残された時間は仲良くなんて、可能なのか?私としては、静かになるべく関わらずに過ごしたいのに。

 産んでくれて育ててくれている母への感謝の気持ち、弱音を吐かない母の強さへの尊敬は、言葉に出来ないだけで、ある。でも「合わなさ」「違和感」に気づいてしまった状態で「家族だから仲良く」は、今の私には難しい。「家族だから」で盲目に繋がれていた部分が、「家族」って…?という疑問によって解けてしまった。こうなってしまった以上、無理に分かろう/分かってもらおうとするのはやめよう。少なくとも同じ家に住んでいる間は不可能だと感じるから。

マシな娘でいるための適正距離

 以上のように、私はろくな娘じゃない。こんな文章を世に放って大丈夫かと心配である。決して自分の主張を誇っているのではない。こんなに赤裸々に自分の自己中心性を晒して恥ずかしい。自分みたいな子供が育ったら嫌だから子供を生む勇気はない。いつか、母が死ぬ前に、いやもっと早く「こんなことをほざいていた自分アホだな」、と気付けるときがくることを願って。

 早急に家族関係をなんとかするために、適正な心の距離をどうとるかに重点を起きたい。まず、いま家族の元を離れ、初めて仕事と炊事洗濯をして、初めて大変さがわかった(遅すぎる)。だから家に帰っても、できるようになったことはやろう。必ず。反抗する前に自立しよう。そしたらきっと親戚からの「支えてあげてね」も気にならなくなるだろう。そして、静かに家を出よう。家族のもとを離れるのが家族関係にとって吉と出るか凶と出るかはわからないが、家族に向き合おうと思えたように、冷静になる意味で価値があると思う。

 そして最後に、自分への戒め。私が感じていた様々な「窮屈さ」「苦しさ」「貧しさ」は、母の努力で軽減されていたのだと思う。急に優等生なことを言いたくはないしありきたりだが、初めて親元を離れて生活し、初めて離婚を軸に人生を振り返り、母という存在のありがたみが分かってきた。目を背けてきた”母の強さ・優しさへの敬い”と”それへの甘え”を可視化したことによって、「感謝しないといけないのにできない」ジレンマを克服する勇気が出てきた。まずはできる努力から。自立を目指そう。

 表現できないけど胸の底に秘めた気持ち、その基になる出来事を忘れないために、定期的ココに戻ってこよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?