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「生ききる」を選べる時代に@町医者エッセイ

Sさんの葬儀に参列しました。私はSさんの最後の主治医。葬儀の数日前、Sさんは、ご自宅で、愛するご家族に囲まれその人生に終止符を打たれました。
葬儀中、遺影の真正面に立つと、溢れ出す涙をこらえられませんでした。晩年、苦しみが少なくなかったはずのSさんが、遺影の奥で穏やかに笑みを浮かべていらっしゃる。眩しすぎました。Sさん、本当にごめんなさい、僕にもっとできることがあったのではないですか。Sさんに申し訳ない気持ちで一杯でした。一方で、尊敬すべき人生の先輩のSさんの、偉大な人生の最晩年と最期に立ち会うことができたその名誉を思うと、やはり涙は止まりませんでした。
 
私は人生の終幕に立ち会うことが多い医師です。「医学にとって死は敗北」という見方もありますが、私は自分の仕事に誇りを持っています。かけがえのない人の人生の最後を共に歩み、最期に立ち会えることは、これ以上光栄なことはないと思うからです。だからこそ、偉大なSさんの最後の主治医となり、臨終に立ち会えたこと、これは私にとっての最大な名誉なのです。
 
かつて、日本人のほとんどが自宅で最期を迎えました。その時代、人の死は、家族そして地域の中にあったはずです。時代は移ろい、病院で亡くなる方が増えていきました。1977年、ついに自宅で亡くなる方と病院で亡くなる方の割合が逆転しました。現在は約8割の人が病院で亡くなります。晩年や死の場は病院へ移り、死後は葬儀業者が担うことがほとんどになりました。人の死が自宅や家族、地域を離れたのです。結果、「最後の生き方」を自由に選択しづらい時代になりました。
 
人は必ず死にます。ただし、私たちは死ぬために生きているわけではありません。「死」というゴールに向けて、かけがえのない人生を「生ききる」のだと思うのです。であるならば、いかに「生ききる」かが大切ではないでしょうか。とりわけ、「どこで過ごすか」「誰と過ごすか」「いかに過ごすか」、この三点を自由に選べる時代がくることを願います。
ちなみに、私は自宅で亡くなることが無条件に最善とは考えていません。自宅だろうと、施設だろうと、ましてや病院であろうとも、その方やご家族が望むところであれば、そこが最善だと思うからです。
ただし一つだけ願うことがあります。「自宅で最期」を迎えたいと希望する方があれば、その願いは叶えて差し上げたい。それが私の医師としての大切な役割です。
 
ところで、私は寿命が近くなった方にお尋ねする四つの質問があります。「食べておきたいものはないですか」「伝えておきたいことはないですか」「やっておきたいことはないですか」「あなたの人生はいかがでしたか」です。なるべく後悔のない晩年を過ごしていただきたいという想いからの問いです。
 
さて、Sさんはたくさんのことを教えてくださいました。例えば、カツ丼が大好きなこと、嚥下反射が随分と強いことなど。実は私もカツ丼が大好きで、嚥下反射も強いのです。私がカツ丼を味わう時、また朝の歯磨きの時「うえっ」となるとき、幸運なことにいつでもSさんを思い出すことができます。Sさんは確かに亡くなりましたが、家族や私たちの心の中では生き続けています。Sさんの物語を、私は引き続き心の中でしっかりと育んでゆきます。将来、Sさんのような強い男性になりたいからです。

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