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人とコミュニケーションをとるということ

自分ひとりだけで生きていくことはできない。

自分以外の他者との関わりは、何をするにしても今の世の中で人間として生まれてしまった以上、避けることができない。

そしてわたしたち人間が得たのは、他者と関わるための高度なプロトコル、「言葉」である。世界中には数多の言葉が存在し、声や音、高度なものは書き残すという手段で時や場所すら超えて、自分以外の他者に対してなにかを伝えることができる。

もちろんプロトコルであるから、一定のルールにしたがってやりとりを実施する必要があり、そのルールに従わなくてはただの「空気を震わせる音」や「書物に記された記号のようなもの」でしかない。メディアはその名の通り媒体でしかなく、本質的に受け取っているのは自分以外の誰かの言葉である。

では、その言葉を受け取ったときにわたしたちはどう反応をするのだろうか。言葉以外にわたしたち人間が特有としているものがある。感情だ。言葉は感情という情報に変換され、その情報に対してわたしたちは様々な反応をする。喜んだり、嬉しくなったり、悲しくなったり、怒りがこみあげてきたり。そしてその感情をまた言葉というプロトコルに変換して、他者へ還すのだ。

言葉と感情の間にこの変換プロトコルを挟むことによって、人は悩み、苦しみ、心を揺さぶられ、涙し、叫び、感情を抑えることが難しくなってしまうことがある。変換の作法や受け取ったあとの処理の仕方、これらは人によって異なるのだ。ローカルルールがはびこっている。結果として、ややこしく絡まってしまったプロトコルは相手へ本来意図しない状態で伝達してしまうのだ。言葉は伝わることを第一の目的としているため、その整合性は二の次なのだ。

整合性の取れていない情報を脳はなんとか処理しようとする。そしてそれはだいたいの場合、受け取った情報を大きく加工はせずにそのまま相手へ返すようにできている。ただし、これは人間の脳へ直接ハードコーディングされたような絶対的なルールである。わたしたちはそれに従っているにすぎない。

その結果なにが起きるか。負の感情に変換される言葉は、負の感情を伴う言葉としてやはり返ってくるのだ。それは抜け出すことが難しい深い深いスパイラルへの入り口なのである。もちろんその逆もしかり。そしてこれは脳が持っているルールであることは忘れてはいけない。

ではこのハードコーディングされたプログラムに抗う方法はあるのか?

そう、しっかりと抜け道も用意されている。感情をコントロールし、言葉への変換プロトコルを自分の正常な範囲へ戻すことができるルールだ。しかしその抜け道は感情に支配された脳では見つけづらく、見つけることができたとしても正しい選択であるという判断すら難しい。そしてそれを変換プロトコルへ適用させるのはさらに難易度があがる。それくらいハードコーディングされたルールが強烈なのだ。

その抜け道を探し出し、自分で処理し、言葉として他者へ投げかけられるのには技術や知識が必要である。それは忘れやすく、ときには見つからないことも多いが、必ず誰しもが持っているものであると私は思っている。もちろんその難易度は人によって違うだろう。いとも簡単に習得して使いこなすことができる人もいれば、長い間もがき苦しむ人もいるだろう。しかし必ず答えはある。その答えを探し続けようとすることが大事なのだ。


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