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原点としての「丸刈り」闘争(3)決戦の時~生徒会総会

(2011年1月11日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)

 小学校ではもっぱら先生の言うことをよく聞く、優等生タイプの「いい子」だった。それが、中学を卒業するころには学校にも教師にも大きく失望し、それが行く行くは大学で教育学部に入り、自ら教員を目指す原動力にもなった。いま思えば、「丸刈り」校則に象徴された学校システムや、オトナ社会との「闘い」は、一教員を経てジャーナリズムに携わることとなる私の歩みの原点でもあった。実家で発掘した中学当時の文章も交えながら、この場を借りて改めて振り返っておきたい。

 今回は第3話への導入として、同学年に在籍していた双子の兄について言及しておきたい。体格から性格まで、とても「一卵性」とは思えないほど
似ても似つかない兄弟だったが、同じく頭髪規制には思うところがあり、中3の4月から髪を伸ばし始めた。

 もともと髪型を気にするようなタイプではなかったが、無意味な規則に従わせようとする学校側の姿勢に対する静かな抵抗だったようだ。グレているわけでもなく、いたって真面目な「優等生」が、確信犯として自己主張を始めたので、教師たちはさぞ対応に苦慮したことだろう。校内ではただ一人の例外だったが、なぜか厳しく注意しようとする教師は少なく、卒業まで事実上黙認された。

 勉強ができようができまいが、どんな生徒にも公平に指導するという気概のある教師がほとんどいなかったことも、失望の度合いを深める要因になった。さすがに担任は注意しないわけにもいかず、事あるごとに対立していたらしい。「表現の自由」などを根拠に理路整然と反論した兄に対し、

「学校内では憲法なんか関係ない!」

と怒鳴ったこともあった。中堅の数学教師だったが、あまりのお粗末さに言葉もない。そんな同姓の兄がいたので、外野からは「弟は伸ばさないのか?」といった野次馬的発言も聞こえてきた。こちらは生徒会役員としてきっちり筋を通し、改正への道筋を切り拓いた上で「伸ばそう」と考えていたので、兄と同じ手法は取らなかった。

 (これでも分かるとおり、親は私たち兄弟に「伸ばせ」とも「伸ばすな」とも言わず、私たちは自分で考え行動した)

 待ちに待った生徒会総会の日が来た。生徒会報の発行がままならない中、全校生徒に訴える機会はここしかない!と決めていた。通り一遍の議事がすべて終わり、「その他の質問」に移ったタイミングを見計らって、私は挙手した。壇上に上がり、用意した原稿を読み上げた。公約実現に至らなかった役員としての力不足を率直に詫び、これまで公にできなかった取り組みの経過、教師による検閲などの問題をここぞとばかりぶちまけた。

 議場は一瞬静まり返った。多少言い訳がましかったかもしれないが、私としては伝えたくても伝えられなかった思いのたけを聞いてもらえた達成感もあり、次期の生徒会役員がこの問題をしっかり引き継いでくれることを確認して降壇した。

 ところが――これで事態は終わらなかった。間髪入れず、今度は兄が手を挙げた。「学校側の返答をまだ聞いていない」と食い下がったのである。さらに、この発言で勢いを得た生徒たちの不満が堰を切ったように噴出し、議場は一時騒然となった。

 ここで事態の収拾を図ろうとした生徒会の顧問は、議長を務めていた下級生に指示を出し、「そういう問題は、この場で話し合うものではありません」と発言させ、議論を打ち切らせた。なおも反論しようとした兄に対し、こともあろうにその顧問は「議長の指示に従ってください」と、したり顔で言い放ったのだ。

 会議においては議長の発言が絶対であることを十分認識していた兄は、返す言葉もなく壇を降りるしかなかった。真面目で「賢い」彼の性格を十分知った上での顧問の発言に、大人の卑劣さを見せつけられた思いがした。あの場面は、今でも忘れられない。顧問はさらに、「まずは各クラスで十分話し合うべき。下からの積み重ねが大事」というその場しのぎのもっともらしい口実を加えるのも忘れなかった。

 総会後。これで終わらせるわけにはいかないと、残された任期で少しでも状況を変えるべく、生徒会役員はさらに攻勢を強め、思いつく限りの計画を立てた。当時、赴任したばかりだった校長は比較的理解のある人で、直接インタビュー(校内放送での企画)を申し込むと、「顧問の了解があれば受けてもいい」と前向きの返事をくれた。

 しかし、当の顧問に確認したところ、「まだ十分に練れていない。生徒会の放送は、委員会活動のお知らせの放送であって、本部(執行部)だけのものではない。強行でやっても、その後、生徒会が活動しづらくなるだけ」との理由から中止。全校生徒を対象とする意識調査の原案を提出すると、「先生方の承諾を受けなければならない。職員会議に諮ってみる」との口実でまたも保留となり、結局実現には至らなかった。

 自分たちで考え、意欲的に行動した役員たちの努力は、教師の都合によってことごとく遮られ、報われることはなかった。やはり生徒会としての活動には限界がある。度重なる挫折でそう見切りをつけた私は、いよいよ最後の手段に出た。


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