キリスト教「にわかファン問題」を考える
日本のクリスチャン人口は長く「1%未満」と言われてきました。にもかかわらず、昨今のテレビではかつてキリスト教信仰に触れた歴史上の人物が脚光を浴びたり、「キリスト教」を冠する書籍類が売り上げを伸ばしたり、さらにはキリストの復活を祝う「イースター」の名も広く浸透する(正しい理解かどうかはさておき)など、不思議な現象が起きています。結婚式も「無宗教」が増えたとはいえ、いまだ6割はキリスト教式です。その矛盾を解き明かすカギは、「1%」の周縁にいる「信者未満」の存在にありそうです。
若いネットユーザーの間では、特定の個人や団体、作品などに入れ込んでいる人々を俗に「信者」と呼ぶそうです。「信者」がその信仰対象の良さを他者に語り、共感を得ようとすることは「布教」、その信仰対象や関連グッズにお金を費やすことは「お布施」とも呼ばれています。
爾来、熱心な「信者」が目の敵にしてきたのが「にわかファン」の存在です。別段「お布施」をすることもなく、流行に便乗して一時的に騒ぎ、かじった知識をひけらかすような人たちに対する蔑視の意味も込め、そう呼んでいるのです。
アイドルが大好きなある女性「信者」は、デビューから10年以上、日の目を見ない時期もずっと見守ってきたのに、最近「にわかファン」が増えたことで、ファンクラブ会員でもライブのチケットが取れないと嘆いていました。
一方、タレントの有吉弘行さんは某番組で、ワールドカップ前後に話題となったサッカーの「にわかファン問題」について、「『にわかだから騒ぐな』というのは好きじゃない」「にわかも巻き込んでこそでしょ?」と、「にわかファン批判」をする「信者」たちに苦言を呈し、かつてプロレス界が衰退したのも「にわかファン」を排斥したことに起因すると指摘しました。
実はサッカー界では、「グラスルーツ」という理念に基づく組織的な取り組みが、すでに始められています。「グラスルーツ」とは「草の根」を意味し、一部のエリートだけでなく誰もが楽しくプレーできることを目指す施策で、世界的にも注目されています。FIFA(国際サッカー連盟)は、「グラスルーツサッカーはすべての、年齢、性別、サイズ、姿、レベル、国籍、信仰、人種、すべての人たちのためにある」として、トップレベルのサッカーを支える基盤として、またその国のサッカー文化の厚さとなるものとして重視しています。まさに、「グラスルーツなくして代表の強化なし」なのです。
ひるがえって、文字通りの「信者」が集う教会はどうでしょうか。観光マップに載っているから見学に来た、ロマンチックなイブを過ごすために彼女と来た、レポート課題を提出するため牧師のサインをもらいに来た……などなど。私たちが思い描く理想とは異なり、「不純な動機」で訪れる「にわかファン」も少なくありません。
しかし、看板では「どなたでもお越しください」と掲げながら、その実「一見さんお断り」な教会が多いのはなぜでしょう。受付で教会員らしき人から、「あなたたちのような人が来るところではない」と断られた学生もいると聞いたことがあります。
確かに、礼拝中の私語や華美な服装、マナーの悪さなど、迷惑を被る例もあります。それぞれ事情もあるでしょうが、「にわかファン」を切り捨てるだけではあまりにもったいないと思いませんか? 仮に「にわかファン」が来るべき場所でないならば、初めから丁寧に説明してあげればいいのです。
前回紹介した「信じるつもりはないが教えてほしい」層も、おそらくこの「にわかファン」に含まれるでしょう。「にわかファン」が「信者」になる道も、閉ざさずに開いていてほしいと切に願います。
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