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震災で問われたもの~キリスト教メディアの視点から(4) 震災後にはびこる「空気」

「中外日報」2014年7月23日~8月8日に寄稿した連載全6回。

「現地見聞」で異なる評価

「震災後に教会に通い始めた被災者が洗礼を受けた」
「津波で自宅も会堂も流されたが、信仰は流されなかった」
「避難生活をする中でますます信仰が強められた」
「復興の最前線に立って孤軍奮闘する牧師がいる」……

 信者が喜びそうな「美談」は無数にある。しかし、それらを取り上げ、持ち上げれば持ち上げるほど、それに該当しない人々の本音は押し込められ、発しにくくなり、存在も覆い隠され、ひいてはなかったことになる。

 まして「ボランティア」全盛のころは、現場にさまざまな課題や瑕疵があろうとも、それを誰も指摘できないような「空気」があった。「善いことをしているのだから足を引っ張るな」「些細なことには目を潰れ」とでも言わんばかりの無言の圧力。

 「なぜあの牧師だけ」「なぜあの団体だけ」という訴えも方々で聞いた。教派、団体、個人による覇権争い、売名行為、義援金の用途に対する疑義、非常事態に乗じて活発に動き始めたカルト団体など、不穏な動きに関する情報も複数入っていた。

 真理は時に人を傷つける。誰も傷つけない(傷つけられない)ことを優先し、厳然とある事実から目をそらすことが、果たして宗教者のとるべき姿勢だろうか。キリスト教や教会の功績のみをあげつらうならば、それは単なるプロパガンダであり、もはやジャーナリズムとは言えない。言うまでもないが、他にも数え切れない無名の学生、ボランティア、教派、教会、団体、牧師たちによる働きがあったに違いない。

 さらに重くのしかかったのは、「被災地に行っていない者は語る資格がない」とでも言わんばかりの、冷たい「空気」。現地に行ったかどうかで二分するような「ボランティア至上主義」。たとえ現場に行けたとしても、わずかの期間で見聞きできる被災状況はたかが知れている。

 場所によっての違いもかなりある。しかし、かと言って「被災していない」「被災地に行けない」ことは「語れない」口実にはならない。むしろ被災地とは一定の物理的・心理的距離を保ちつつ、冷静な視点で発信する役割も必要なはずだ。

 複数のメディアに対し、「安全なところでぬくぬくと記事を書いて…」「被災者の苦しみなどわかるはずがない」といった意見も寄せられたと聞く。そうした批判は甘んじて受けるしかない。

 しかし、それを覚悟してなお、私たちには伝えるべき言葉と、それを伝えるべき使命がある。記者に限らず、さまざまな事情から直接被災地に行けない後ろめたさを口にする人も少なくなかった。しかし、ただ現地に足を運ぶことで、安易にそのわだかまりを解消してはならないのだと思う。

 「言葉にできない」何かを抱えながら、この震災とは何だったのかと問い続ける必要がある。震災後を生きているという意味で、わたしたちは皆「当事者」であり、今や程度の差はあれ、現実に皆「被曝者」となってしまった。もはや誰一人、無関係ではいられないのだ。

(「中外日報」2014年8月1日付)


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