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ヒーローだって、人間だもの(総督)

 「モーレツ社員」が高度経済成長を支えた60年代。テレビCMに「24時間戦えますか?」と鼓舞された80年代。牧師たちも年中無休365日、家庭を顧みず、休みなしで教会に仕えることが理想とされた時代があった。牧師家庭に育ち、家族旅行の記憶がないというPK(牧師の子ども)の嘆きを耳にしたのも一度や二度ではない。

 先日、「牧師さんや神父さんも泣いたり怒ったりするんですね」というノンクリパンピー(信者ではない「一般人」)の率直な声を聞いて衝撃を受けた。日々、生身の牧師や神父と接している身からすれば、「泣いたり怒ったり」なんてごく当たり前。人前で平静を装いつつ、動揺を隠し切れない場面だって少なくないだろう。もちろん、常に冷静沈着で感情を露わにしないタイプもいるだろうが、世間のイメージとのギャップに改めて驚かされた。

 牧師だって、人間だもの。信徒の何気ないひと言に傷つきヘコむこともあれば、人知れず泣きたい夜もある。過労も積もれば鬱になるし、「社畜」ならぬ「教会畜」として酷使されたらかなわない。きっと、心乱れて祈れない時だってあるはずだ。

 こんなことを言うと、「牧師は召命によって立てられているんだから、他の職種と同列に論じるべきではない」などと怒られそうだ。教派によって「教職者」の位置づけは微妙に異なるが、どんな聖人君子だって「弱さ」もあれば「しくじり」も犯す。かのキング牧師だって、マザー・テレサだって、宗教改革者のカルヴァンだって……。ダビデは誘惑に負け、サムソンは自慢の髪を切られてみじめな末路をたどった。もし、人として非の打ちどころがなく、原罪すらなかったら、それはもはや人間ではない。神の子、イエスだ。

 チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世は、聴衆にこう呼びかけたことがある。「わたしは皆さんと同じ人間であって神ではない。まして(非難者が吹聴するような)悪魔でもない」

 信徒は牧師を神格化してはならない。牧師自身も、周囲が作り上げた「理想像」に縛られる必要はない。互いに「虚像」を追いかけていれば、いずれ必ず限界が訪れる。無論、それで牧師の「不祥事」が免罪されるわけではない。大前提として、同じ罪深い人間でありながら、ただ神の憐れみによって愚かで小さい器が用いられることの幸いをかみしめよう。必要なのは、牧師の「人間宣言」だ。

 キョウカイジャーの諸君も、その点くれぐれも肝に銘じて任務の遂行にあたってほしい。そして彼らを応援する全国のちびっ子たち(を含む読者の諸君)! どうか引き続き温かな応援を頼む。キョウカイジャーには、やるべきことがまだまだ残されているのだ。

 なに? 「総督」も人間なのかって? それは残念ながらトップシークレットだが、カマドウマだけは勘弁してほしい。

(2015年9月21日付「キリスト新聞」掲載)

【総督】名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)。

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