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間口は広く、敷居は低く、奥行きは深く

(関西学院大学神学部ブックレット『若者とキリスト教』より)

 映画監督の宮崎駿が、チャップリンとディズニーの映画を比較して興味深い発言をしています。

 僕がチャップリンの映画が一番好きなのは、なんか間口が広いんだけど、入ってくうちにいつの間にか階段を昇っちゃうんですよね。なんかこう妙に清められた気持ちになったりね(笑)。なんか厳粛な気持ちになったりね。するでしょう?
 ディズニーの作品で一番嫌なのは、僕は入口と出口が同じだと思うんですよね。なんか「ああ、楽しかったな」って出てくるんですよ。入口と同じように出口も敷居が低くて、同じように間口が広いんですよ。
 エンターテイメントっていうのは、観ているうちになんかいつの間にかこう壁が狭くなっててね、立ち止まって「うーん」って考えてね、「そうか、僕はこれで駄目だ」とかね(笑)、そういうふうなのが理想だと思うんです。なんかこう……入り口の間口が広くて、敷居も低いんだけど、入っていったら出口がちょっと高くなってたっていう。壮絶に高くなることは無理ですよ、それは。(宮崎駿『風の帰る場所――ナウシカから千尋までの軌跡』ロッキング・オン)

 教会はエンターテイメントではありません。しかし、宣教命令に従い「伝道」を掲げる以上、これまで縁のなかった外の人々をいかに中に招き入れるかという点にこそ、神経を使わなければなりません。

 CMの振り付けなどを多数手がけてきたダンサーのパパイヤ鈴木は、かつて出演したテレビ番組でこんなコメントをしていました。

 ダンスをバリアフリーにしたいんです。せっかく上(の水準)がどんどん上がっているんだったら、裾野をどんどん広げるためにバリアをどんどん取って、その辺にいる人が間違って入ってきちゃって「楽しい」みたいな、「アイツに騙されてやってみたらダンスだった」みたいな……。それでいいんです。(2011年11月5日放送「心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU」日本テレビ)

 パパイヤ鈴木は、むしろダンスが苦手な人に「振り付け」することが多いと言います。一世を風靡した「おやじダンサーズ」がその典型です。さらりと言ったひとことでしたが、的を射た名言だと思います。私がやろうとしていたことも、究極的にはこれだったのかと。

 キリスト教(教会)をバリアフリーにしたい。それは何も、聖餐をフリーにして、誰でも入りやすい教会にするとか、某宗教団体の如くダミーのサークルで偽って勧誘するとか、そういう次元の問題ではなく、もっと根源的な「伝道観」とでも言えるような。やたら「伝道、伝道」とか言う割に、本気で伝えたいと思ってるんだろうかと疑いたくなるような教会の現状などを見るにつけ、せっかくニーズが高まっているんだったら、障壁となっているものをどんどん取り除こうじゃないか、と。

 信徒を増やして教会をゲンキにしようと思ったら、キリスト教(教会)周辺にいる人たち(信じてはいないけど聖書が好きとか、教えにシンパを感じているとか)を大事にしながら、裾野を広げていかないと話にならないと思うわけです。技術よりも「楽しむこと」から入って苦手意識を克服させ、ダンス人口(=信徒未満の「周辺」人口)を増やすこと。それは決して、ダンス(=キリスト教)の本質的な部分を骨抜きにすることにはならないと思うんです。

 いや、これまで「本質的」「神学的」「聖書的」として死守しようとしてきたことが、むしろ手を加えてみたら枝葉末節に過ぎなかったということがあるんじゃないかと。そういう気付きは、やはり第三者的な視点からしか与えられないように思います。


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