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「困った時の神頼み」にしないために(総督)

 「間に合っています」という表現がある。目下、必要としていないサービスや勧誘をやんわりと断ることのできる便利な日本語である。電話口や路上で押しの強い人に遭遇した際にも、このひと言さえ持っていればたやすく撃退できる。

 教会への招きも同様に、このキラーワードで断られることが多い。「わたしは結婚していて家族もおり、衣食も足りて住む家もある。体は健康、仕事も順調。社会的にも成功を収め、今のところ依拠するものなど必要ない」――そう言われたら、読者諸氏はどう答えるだろう。「いやいや、そうは言っても本当は困ってるんでしょ? 魂の飢え渇きとか生きがいとか……」などと言い募り、相手の弱みを強引に引っ張り出そうとするだろうか。

 ウィリアム・H・ウィリモンが書いた『教会を必要としない人への福音』(日本キリスト教団出版局)という邦題の著書がある。原著が書かれたのは30年も前だが、その内容は今日にも十分適用でき、示唆に富む。文字通り、 教会はいわゆる「強い人」に届く言葉を語ってこなかったし、「強い人」の強さを教会が必要としているという視点も欠けていたと指摘する。「わたしは教会なしにやっていける『強さ』を持っている」ので、「間に合っています」という教会外の人々に、語る言葉を持っているかと問うのだ。

 日本の教会は長く、「困っている人」「弱い人」へ寄り添うことに心血を注いできた。居場所のない人々にとっての「駆け込み寺」的な役割を期待され、そうした機能を果たすことも十分あり得るし、そうした地域のニーズには応えればいい。しかし、「弱者救済」「隣人愛」を掲げて大風呂敷を広げた結果、肝心な受け入れ体制もまともなケアもままならず、教会内は「困っている人」や「困った人」(トラブルメーカー)であふれ、元からいた信者たちや牧師が疲弊していく。いつかどこかで見た景色。

 そもそも我々の信じるキリスト教が「困った時の神頼み」であるならば、「困った時」でなければ必要ないということになるし、現状に満足し、困っていない「強い人」は教会に来てはいけないということになる。  それこそ安易に「お人好しな便利屋」を買って出たところで、根本的な解決にならないばかりか、中途半端な環境で信徒の依存体質を増長させ、余計に問題を複雑化させるという事態も起こりかねない。

 餅は餅屋。仮に「困った」ことがあれば、その問題に対処できる専門家を紹介するなり、その道に詳しい教会員が必要な情報を提供すればいい。とり わけ精神的、経済的な問題を解決するには素人の力だけでなく、行政や非営利団体などのサポートが不可欠であり、対応を誤れば命に関わることだってある。教会は自らが背負える重荷をわきまえ、身の丈に合った働きをすべきである。

 教会には「困ったこと」がなくても、いつでも誰でも来ることができる。弱かろうが強かろうが、悩みがあろうがなかろうが、みんな同じ罪人に変わりない。だからこそ、働き盛りの「強い人」がもっと増えていい。畏れるべきを畏れ、頼るべき時に頼る、経済的にも精神的にも真に自立した、オトナでカッコいいキリスト者のロールモデルを描こうではないか。

(2017年11月11日付「キリスト新聞」掲載)

【総督】 名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)。

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