時にはコスパの話を(総督)
かつて5月7日付本欄「続けるだけが能じゃない!」の回で、「時にはやめる勇気も持とう」と提言した。今回はその続編。
「仕分け」や「スリム化」が叫ばれて久しい。あらゆる場面で「コンプライアンス(法令遵守)」と「アカウンタビリティ(説明責任)」が求められる世知辛い世の中でもある。教会は長く、それら世俗的な「企業の論理」とは無縁の世界にあった。
信仰共同体としての教会が、効率や実益のみを最優先する今日の風潮に流される必要はない。長期的展望を見据えて、地道に種をまき続ける意義も当然ある。「結果ではなくプロセスが大事」「開催することに意義がある」という言葉もよく耳にしてきた。
しかし、それら「教会の論理」が、無駄と非効率を放置し、現状維持を押し通すための口実になってはいないだろうか。これまで長い歴史の中で、改革を迫られる場面は幾度もあったはずなのに、課題を先送りにし、本気で向き合ってこなかった結果ではないのか。どんなに言い繕っても、無駄が無駄であることに変わりはない。
たとえば伝道集会。無差別に街頭でビラをまき、大量のチラシをポスティングし、52円切手を貼ってはがきを投函する。それだけの時間と資金と労力をかける一方、より大切なことが抜け落ちてはいないか。なぜチラシを受け取った人が来ないのか。心に刺さるような魅力的な企画と、それにふさわしい文言が練られているのか。相手の立場に立って考えてみたことはあるだろうか。
たとえば教派神学校。本号8面で廣石教授も指摘しているとおり、すでに方々で限界が見えてきている。毎年1人いるかいないかの新入生獲得に奔走し、ごくわずかな在校生を維持するために多大な浪費もいとわない。「将来のための投資」と言えば聞こえはいいが、信徒のささげた多額の献金がみすみす膨大なコストとしてつぎ込まれるのを見るのは忍びない。
たとえば教派・団体主催のシンポジウム。スタッフ含め10人未満の集会。何度開いても新しい参加者がいない会合。それを承知の上で継続し続けていることにどれだけの意味があるのか。より多くの参加者を募りたいのであれば、別の工夫が必要になるはずである。
「結果がすべてではない」「目に見えない成果もある」。いずれも至極ごもっとも。しかし、たまにはコストパフォーマンスも視野に入れ、より効果的な方法を考える努力を試みてもいい。成果が上がらなければ、その原因を話し合い、解決策を講じる。失敗を恐れず、挑戦する。必要ないものは削る。限られた時間と予算と人員で、最大限の効果を生み出せるよう協働する。そして祈りつつ、果たして本当に「神の国のご用」のために役立っているかどうかを検証すべき時ではないか。
(2016年12月25日付「キリスト新聞」掲載)
【総督】名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)。
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