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自分のやりたいこと、やるべきこと

晴れた公園を歩いていると、メタセコイアの林の木々の向こうからチェロ音が聞こえてきた。 木々にこだまして聞こえる音色は響き合ってホールとはまた違った良さが気持ちがいい。 時おり曲の一部を何度も練習していて、”あぁー、練習しているんだなー!”と感じて林を歩きながら聞いていた。

よく会話をしていると「それ私も見た。」と言って話を割って入って取ってしまう人がいる。 その人は話を盛り上げようと思ったのだけかもしれないし、ただ共通のことをアピールしたかったのかもしれない。 おそらく、その人にとっては日常のことなので悪気はないだろうけど何回目かにたえられず「よく話を割って入る人いるよね」と言ってしまた。

とうぜんその人は「何を言っているの?」とした顔で見ていた。すぐに「ごめんごめん」とその場をおさめたが、まだ話している途中で遮られて嫌な思いをしたのを覚えてる。 タダ言ってしまったことはおそらく向こうも本当は気が付いているだろうから、向こうにも嫌な思いをさせてしまって反省もした。

同じものを見たとしても人それぞれ味方は違うのだから、見たものの話も違うだろう。 その人は見たものはみな同じと処理しているのだろう。  自分が見たものの伝え方はその人の経験や興味・知識で変わってきてしまうのだ。「見たこのある」「わかっている」と頭で認識したとたん、そこで思考はストップしてしまう。「その先の知りたい、もっと見たい、理解したい」ということが新しく発見や気づきがある。

自分のやるべきことについて考えていると、結局のところ「自分とはなにかを理解すること」という結論になってくる。 「自分をきちんと理解して表現する」はとてもむずかいし。それを難しくしているのは、自分のメガネでみてしまうこと。「自分とはこういう人間」「自分のことは自分が一番わかっている」という考えだ。

あたりまえのことだけど、いつのまにかいろいろな人の意見を聞かず自分の考えで走ってしまう。 ほんとうの自分を見つけて表現するには、自分の目・他人の目を知ることが大切で、それにやりたい表現ややりたいことを合わせていく。

この公園でそれを気がつかされた。  チェロの響きはやさしくメタセコイアの林をとおりぬけていった。

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