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「運動会で順位をつけない」は何がおかしいか

何年前からでしょうか、子供の運動会で、かけっこなどの順位をつけないところが出てきたそうですよね。 かつて徒競走では、1着2着・・・ と順位をつけるものでしたが、今はそれをやめて、みんなで一斉にゴールするんだとか。
 
順位をつけない理由は、1着になれない子がかわいそうだから、とか、競争心を煽るのがよくない、ということらしいですね。
 
それらの理由で、学校や親が納得しているということですか? どういう経緯で誰が決定するのかということも不透明で妙ですが、こういうことが 「雰囲気で」 「同調圧力で」 決まっているようにしか見えないところがまた気味悪いですね。
 
1位になれない子がかわいそう、って何でしょうか。 成績では順位をつけていますよね。 成績で自分がどれぐらいの順位かわからなければ、自分を知ることができず、志望校も決められませんよね。
 
少なくとも成績に関しては、順位を知ることは自分を知ることです。 例えば人生で初めて自分の将来を考える時、最初に手がかりになるのは学業の順位でしょう。
 
かけっこと学業の何が違いますか? 成績で順位がつくのであれば、かけっこで順位がつくことも、何もおかしくないですよね。
 
人間の素質はみんな違うので、学業で輝く子がいれば、運動会で輝く子もいる。 それぞれに機会が与えられるほうが、フェアなことです。
 
音楽が得意な子が、合唱祭で活躍する。
 
リーダーシップのある子が、文化祭で活躍する。
 
いろいろな個性が、いろいろな場所で輝く。 それが社会というものです。
 
そのようなことを学ぶのが教育でもある。 かけっこの得意な子だけ輝くことができないのは、却ってアンフェアだと思いませんか。
 
次に、競争心がよくないですか?
 
競争は、人生に必要なものですよ。 あいつに負けたくない、あの子に負けたくない、と思う気持ちが、自分を頑張らせてくれるという経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
 
競争が悪いのではなくて、勝ちたいと思うあまりに卑怯な振る舞いをしたり、人を傷つけたりするようなことがあったとしたら、その行為が悪いのです。 行為が悪いのであって、競争が悪いのではない。
 
大なり小なり、人生は競争の連続です。 高校受験も大学受験も、合格の枠を目指して争っていますよね。
 
そのあとの就職活動では、今度は入社の枠を競っている。
 
結婚だって、「婚活」 なんて変な言葉を使い始めて、わざわざ競争を作り出しているように見えますけど。
 
「自由競争」 という言葉がありますよね。 いま日本人は日本が資本主義であると思っていますけれども、資本主義の大原則になっているのが自由競争です。
 
利潤を追求する中で、市場での競争が不可欠なのが資本主義。 競争がなければ成功もない。
 
もし競争を避けて、みんなで仲良く平等に、というのなら、それはもう共産主義ですよね。 誰が富を生もうが、全員で平等に分ける。 競争がないけれども、個人の成功というものもない。 望んでいるのはそういう社会でしょうか?
 
「競争」 を否定するとはどういうことなのか、その先に何があるのか、考えられているでしょうか?
 
国際社会を見ると、自分の国を何とか豊かにしようと頑張っている若者や、あらゆる分野で成功を目指して頑張っている人々がしのぎを削っているわけです。 そんな人々からすると、「かけっこでお手々つないでゴール」 なんて、おめでた過ぎて失笑しかない。
 
競争というのは、争っているのではなくて、実は自分を高めるためのものですよ。
 
もう50をすぎたこの歳になるとしみじみ実感することですが、人生は自分を成長させるためにあるものなのですよね。
 
そして自分を成長させるために競争がある。 つまり競争というのは、目に見える誰かと争っているのではなくて、本当は自分自身との闘いなのです。 自分を高めるために、努力していくために、目に見える形での競争が与えられているのですね。
 
競争は自分のためのチャンス、と考えて、感謝できるようになる。 そうなることが成熟なのかもしれません。
 
そのような精神的な土台のない社会は、未熟で脆いですね。
 
日本はせっかく歴史がある国なのに、いつのまにか精神的な成熟を捨てているように見えます。
 
徒競走の順位をつけないなんて、わざわざ人生を貧しくしているようにしか見えません。
 
1着になれなくて悔しい、と思うことも経験です。 そんな経験ができずに大人になって、もっと大事なことで勝負に勝てなかったとき、または何かに失敗したとき、果たして耐えられる力がついているのでしょうか?
 

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