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ひめゆり部隊として戦火を生き抜いた祖母の隣で見た「1945年の青空」


この季節になると私は、あの日、祖母の隣で見た「1945年の青空」を思い出す。


「ひめゆり部隊」の一員として動員され、戦火を生き抜いた祖母


今年97歳を迎えた私の祖母は、あの沖縄戦に動員された「ひめゆり部隊」の生き残りだ。

太平洋戦争末期の1945年3月、米軍は日本本土攻略の足場として沖縄の確保を目指し、圧倒的な物量で総攻撃を仕掛けた。

一方、日本軍は沖縄を「防波堤」として捉えた。

日本本土への上陸を一日でも長引かせるために、沖縄本土での地上戦を一日でも長引かせる判断。

その結果、沖縄戦は長期化し、日米双方で20万人もの戦死した。そのうち12万人は沖縄県民だった。

日本軍は兵力不足を補うため、沖縄県民を「根こそぎ動員」し、中等学校や師範学校などの10代の生徒まで戦場に動員しました。

那覇市安里にあった「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」からも、生徒・教師240名が看護要員として動員され、そのうち136名が死亡しました。

2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後、彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになりました。

ひめゆりの塔・ひめゆり平和記念資料館
公式ホームページより引用


看護要員として動員され、突然の解散命令を受けながら戦火を生き抜いた「ひめゆり部隊」の104人の中に、祖母がいた。

足に砲弾を受けながら、沖縄陥落後も逃げ続け、2カ月ものあいだ海岸に身を潜ませた。逃げて、逃げて、逃げ続けて、最後には米軍の手に落ちた。

「あいつらに捕まったら強姦されて殺される。そのときは自決せよ」

そう教わり続けたが、怪我を丁寧に手当し温かい食事を与えてくれたのは、その米軍だった。


17歳だった。


あの戦争から80年近くが経とうとしている今、生き残った104名の多くが他界されている。

祖母を含め、当時の様子を実体験として語ることができるのは、片手で数えられるほどになっている。


「申し訳ない」と思いながら生き続けている祖母


「なぜ私が生きられたのか」「死んでいった仲間に申し訳ない」

生き残った多くの方と同じように、祖母はそう思いながら生き続けている。


教師になる夢を叶えるために、彼女は15歳でひとり石垣島から海を渡って沖縄師範学校女子部に入学した。

そこで出会った仲間たちと過ごした眩しいほどに美しい日々を、祖母は昨日のことのように覚えている。


そしてあの夏が、その多くを奪い去った。


青空の下を歩くたび、美味しいものを食べるたび、幸せを感じるたびに、祖母は心に痛みを感じている。

「あの子たちにも食べさせてあげたかったさぁ」

そう口にする。


だから、1984年に実現した「ひめゆりの塔 ひめゆり平和記念資料館」の創設に、人生のすべてを捧げた。

教師になる夢を叶えて平日は働き、休日は足繁く資料館に通って証言員として40年近くも活動した。

戦争の悲惨さを伝え続けてきた。友人を、望みを、願いを、希望を、人生を奪ったあの戦争の恐ろしさを訴え続けてきた。

証言員の役割を退いた今も平和への情熱を燃やし続け、あらゆる機会を捉えては、出会う人々やメディアに対して口を開いている。


2002年、一人で訪れた沖縄


2002年、大学3年生になった私は一人で沖縄を訪れた。

10歳で福岡に引っ越して以来、家族で帰省することはあったが、一人で戻るのは初めてだった。

滞在先は、祖母の家。


幼い頃から祖母に会うたびに、戦争の恐ろしさを耳にしてきた。

「まこと、戦争は絶対にいけないよ」
「まこと、平和のありがたさを忘れてはいけないよ」

何度となく聞いたこの言葉の意味を、当時はほとんど理解していなかった。


当たり前すぎて。
遠い過去のことすぎて。
想像力が無さすぎて。


だから、少しばかり成長して迎えた2002年の「あの日」は、忘れられない日になった。


平和の礎にて、祖母の隣で見た「1945年の青空」


あの日、私は祖母と「ひめゆりの塔」を訪問した。

何度も見学していたはずの場所だったが、知らないことが多すぎた。恥ずかしさも湧かないほどに自分が無知だったことに気がついた。

隣で歩きながら、一つ一つ実体験を語ってくれる祖母。

知らない間に、その話を聴こうと人だかりができている。皆、静かに、じっと祖母の話に耳を傾ける。

その中心にいた私は気恥ずかしさと誇らしさを感じながら、彼女の見てきた世界に思いを馳せた。


一番の発見は、祖母の女学生時代が今と変わらないキラキラしたものだったと知れたことだ。

暗い、悲しい、闇のような学生時代を彼女が過ごしてきたと思い込んでいたのだが、まったく違っていた。

今と同じように笑い、同じようにオシャレして、同じように学び、同じように恋をして、同じように夢を語り合っていた。

彼女にも眩しい青春時代があった。戦争が焼き尽くした沖縄の土地に、確かに彼女の青春があった。

「良かった・・・」

素直にそう喜んだのだった。


スタッフの方に挨拶してから資料館を後にし、2人でソーキそばを食べ、タクシーに乗り込んだ。

行き先は「平和の礎(いしじ)」


「平和の礎」は、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として1995年に建設された。国籍、軍人、民間人を問わず、全ての戦没者の氏名を刻んで永久に残すことを目的としている。

「平和の礎」は、そこを訪れる人の心を掴む。

20万人にのぼる戦死者達の名前が刻まれた黒く大きな刻銘碑が、中心にある「平和の火」に至るまで100基以上も美しく並べられている。

刻まれた戦死者の名前に目をやりながら、祖母のスピードに合わせてゆっくりと歩いた。


刻銘碑を過ぎてたどり着いた「平和の火」の先には、断崖絶壁と定規で引いたような水平線、そして青い空が見える。

そこで立ち止まり、何を話すでもなく、祖母と2人でしばらく海を見つめた。

うるさい蝉の声が、その場の静寂を一層引き立てる。


すると突然、不思議な感覚に包まれた。


ずっと記憶にあった「モノクロ」の沖縄戦の映像が、戦火の写真が、突如として「カラー」に変換され私の脳の裏に映し出された。

真っ青な空を飛ぶ爆撃機、真っ青な海に敷き詰められた米軍の艦隊。そして、黄色い笑顔を携えて青空の下を歩くひめゆりの女学生達の姿

すべてがフラッシュバックのように浮かんでは消えていった。


「あぁ、そうか。おばあちゃんもこれと同じ青い空を見てたんだ」

心の声がこだました。


私はあの日、生き残った祖母の隣で、かつて彼女が見上げた「1945年の青空」を見ていた。

そしてその瞬間、ずっとどこか遠くの出来事だと感じていた祖母の世界を、急に身近に感じることができた。

彼女の生き残った世界の延長線上に、自分が生きているこの世界があることを感じた。

「平和が大事」とか「戦争はダメだ」とかいうことではなく、もっとその手前のこと。

自分と同じように一生懸命生きていた祖母が、多くの人たちが、地獄のような戦争に突如として巻き込まれた。

この鮮やかな青空の下に、一人一人の夢があった。笑顔があった。家族があった。仲間があった。人生があったのだ。

それを、初めて実感した。

「ぎゅう」っと、心を素手で掴まれるような感覚だった。


あれから22年が経ったが、色を持ったあの日の記憶は、今も決してあせることがない。


祖母に尋ねてはいけなかった質問


「あの日」から数年が経って、面と向かって祖母に尋ねたことがある。


「戦争がダメだとしたら、最終的に何が解決策になるんだろう?」


何も悪気はなかった。私なりに、祖母が人生をかけて伝えているメッセージをより深く理解したいという動機で投げかけた質問だった。

しかし祖母は困った顔を見せ、すっかり口をつぐんでしまった。

予想もしなかった孫からの問いかけに答える準備ができていなかったのか。あるいは、そんなことも分からないのかという呆れだったのか。


しかし、しばらくして悟った。
それは、祖母に尋ねてはいけない質問だったのだ。


祖母は戦争という地獄を生き延び、何があっても「戦争を解決策としてはいけない」ということを訴える使命をもって生きてきた。

それが、彼女が人生をかけて果たしてきた彼女にしか担えない役割だった。


戦争に代わる解決策は何なのか?それを考える役割は、私にある。彼女からバトンを受け取った私に。

答えられることのなかった祖母への質問が、今自分に跳ね返ってきている。


「平和を作り出す」というテーマ


尊敬する祖母の影響で、私の人生の底の底には「平和を作り出す」というテーマが流れている。

世界規模での解決策が何であるかは、正直私には分からない。

でも、家庭や身近な人間関係から生み出せる平和があると感じている。隣人として、夫として、父として、研修講師として。

心に膨らむその兆しを、これから形にし、実践していくつもりだ。

あの日私が見た「1945年の青空」は、神様が与えてくれた奇跡だと信じているから。



(あとがき)
長文を読んで頂きありがとうございました。
私の語彙力ではこのテーマについて簡潔に書くことはできませんでした。
簡潔さを捨て、丁寧に書くことで、何かが伝わればと考えた次第です。
何かを感じて頂けたなら、とても嬉しいです。

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