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47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで!波乱万丈、営業に一番大切なモチベーション(第三話)

順々に契約を頂き、その日5件の契約だから切り替え完了すれば10万円になる。
やっぱり営業の醍醐味は、顧客様からの紹介だ。
昔から、すぐに誰とでも仲良くなれる私の特技でもあり、それが営業に生かされるとは考えてもいなかった。
(第二話終わり、第三話に続く)
・・・第一話:47歳までに転職10回以上!波乱万丈な人生を生き抜きました。(第一話)|真淵慶|note
・・・第二話:47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで! 営業力開花への第一歩(第二話)|真淵慶|note
・・・第三話:47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで!波乱万丈、営業に一番大切なモチベーション(第三話)|真淵慶|note

第三話:営業に一番大切なモチベーション


その日を境に、私の実績は急上昇した。
やはり営業は「モチベーション」だ!

大学ノートに書き込んだ見込み客を片っ端から訪問し、更にご近所の知り合いや友人を契約した方から紹介して頂き、「連鎖」と言う営業手法を見つけた。
これまでにも本屋に行っては確認の意味も込めて営業に関する著書を片っ端から読んだが、"言うは易し行うは難し"で、この後数多くの営業手法を身につけていくのだが、私の様に現場で「気付き会得し実践した」営業理論が一番生きた営業手法だと確信してる。

1日の仕事が終わると、テンションが上がってて、毎日酒で沈めていた。
器の大きな副社長に言わせると「金は使う人間に回るもの、使わない人間には回らない」だと。
なので、年間500万円以上は浪費した。
席に着くだけで4〜5万のクラブも女の子4人くらい着いて10万円〜20万円で豪遊した時期もあった。

その頃には当然20代前半の借金750万なと無くなっていて、新たにカードも作れる様になっていた。

さて、神奈川から主戦場が東京多摩地域に移っていく。

町田から福生・雨間・立川・八王子・青梅・瑞穂さらには埼玉の所沢から飯能・狭山・入間へと。

その頃には、プロパンガス業界で私の名前も売れて、かなり恐れられていた様だった。

なんせ、一件契約取ったら、その隣近所で片っ端から30〜50契約取って、相手業者の切り替え阻止にも対抗し、プロパンガスの自由化を宣伝しまり、地元の既存業者のガス料金の高さをあからさまにしていったわけだから。

当時小泉首相の「だからこそ、変えるべきなんですよ」のフレーズは良く使わせて貰った。

25年前は、旧体制から新体制への転換期でもあった。

まあ、その時期は流れにうまく乗れたと言うべきなのかもしれないが、今まで顧客さえある程度いれば、何もしなくても稼げてた地元のガス屋さんにとっては寝耳に水だった事だろう。

私の人生は、引き抜きかヘッドハンティングにより流されてきた気がする。

しかしその世界には、やはり暗闇も存在していて、私は正義感が強く我も強いので、幾度となく怖い思いもした。

当時プロパンガスガス会社は、どこも多少の差はあるがヤクザと繋がっていた。

契約してもらった1区画の相手ガス会社の黒塗りベンツに尾行されたり、顧問のバッジをした見た目ヤクザ屋さんとは良く対峙した。

副社長とともに私が歩んだガス会社の切り替え営業の中にも、その出身はいた。
私が副社長に指導を任されたのは、元組長らしいUさん。
彼の初日にはうってつけの仕事があった。
私が契約を貰った1区画30件の所に、その日の午後既存ガス会社が切り替え阻止で来るらしかったので、「Uさん、ここで待機してて、相手業者が来たら追い返しておいて」
「夜、いい店連れて行くから」
で、夕方そこに行くと問題なく追い返してくれていて、入間まで行って一緒に飲んだ。
カウンターでママに紹介する時、私が調子に乗って「彼はUさん、俺の舎弟になったから」と言うと、Uさんに耳元で「沈むのと埋められるのどっちがいい」と言われ、焦った私は「冗談ですよ、冗談」とひきつった笑いで誤魔化した思い出もある。

他にも、みんなで飲みに行くと墨の見せ合いしてる奴がいたり、そんな環境に同和してる自分が怖い。

またある日、私が例の如くまとめて30件ほどSガスの一画をまとめて契約取り、お客さんの情報で、相手既存業者がいついつ来るみたいとわかると現場で待機するわけだが、ワゴン車4台で10人くらいでやって来て、私を囲み「いい度胸してんな、切り替えさせないからな」と言われ、私が慌てて副社長に連絡すると「お前なら出来る、一人で大丈夫だよ」とそつない返事。
腹を括り、「いや、お客様の希望だから切り替える」と言い放った。
すると相手の一人が「新築も入ってるんだよ!配管で金掛かってるんだよ」と。
私の財布には30万円ほどあったので、「いくら掛かってんだ?」と聞き返してみた。
「20万円だよ」
私はすぐさま会社に電話し、常務に払っていいか聞いてみた。その範囲ならOKだったので、「わかったよ、領収書出せよ払うから」で、向こうはその場で払うとは思ってなかったらしく、しぶしぶ領収書と代金交換でその場は収まった。

またある時は、相手業者が切り替え阻止で来てると言う事で現場に着くと、何度も顔合わせしたガス会社のMさん。
「なんだ、またあんたかい、もうかんべんしてよ」と。
私は笑みを浮かべながら「わかったよ、これでしばらく攻めないから」と、変な親近感が生まれた相手もいた。

まあ、今はわからないけど20〜30年前までは、企業にはそういった関係者が顧問として存在していたのだ。

それから2〜3年経つと、自分にも3人ほど部下がついており、その中のSさんも元ヤクザ屋さんだが、年は5歳下で弟の様な存在だった。
Sさんは、カールスモーキー石井に似ていて、常時金を部屋に置いていく女性を3人は囲っていた。
それだけ外見がいいのは確かだが、気さくで、面白くて、優しくて、時に冷たいのがモテル要素だったのかもしれない。

そんな彼は、不思議と私と馬が合い、私の為に色々動いてくれて頼もしい存在でもあった。

彼には「俺が道外す前に、あなたみたいな人に出会っていたら、まともな人生送ってたんだろうな」と言われ「今からでも遅くないよ」と返してあげた。
確かに短気なので、時々スイッチが入ると怖い人に変身するときがあった。
でも私が止めるとすぐ冷静になってくれるので、嬉しかった。

まあ、こういう世界なので、逆に汚い手で私を貶め自分を優位に立たせよとする輩にも数多く出会った。
まあ、そういった人間は自然と淘汰され消えていくのだが、私は、一度「うつ病」ぽくなり(病院にはいかず、会社を無断で1年休んだ)昼間は部屋にこもり、夜買い物か食事に出る感じの生活が1年続いたことがあった。

誰が訪ねてきても出ないし、布団にくるまる感じだった。

「生活費はどうしたの?」
何故が逆境に何かしら救いの手がさし伸ばされてくる人生だったので、その時も、ジャパンカップとジャパンカップダートの両レースを武豊から買って200万円くらい儲けたので、それで凌ぎました。

まあ、運が良いと言えばそうかも知れない。

普通の人なら私の周りの環境や遭遇する人達からして逃げ出す人生だもんね。

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その精神状態最悪の時にネットゲームで知り合い、また1年後仕事に復帰(副社長が社長になったが、心の広い社長は私を再度受け入れてくれて)してからも、ネットで会話はしていたが、「一度食事でもする?」と言うと。快い返事で、私は千葉迄車で向かい握りの寿司を食べて飲んで、付き合うことになった。
彼女は時々電車で家まで遊びに来てくれた。

そんな彼女と、電話で話してる最中、急に彼女の具合が悪くなって救急車で運ばれたので、私も車で深夜飛ばして安孫子の病院まで行き、朝方まで見守った。
彼女が目を覚ますと、医師に状況を聞き、退院しても大丈夫だというので、「もう心配だし見てられないから、後で荷物やら全部手配するから、うちで一緒に住なよ」と自然と口から出た言葉に、「うん、そうしようかな」という返事。
しかし、私の部屋と言えば、築30年以上のカチッカチッと点火する四角い五右衛門風呂の様な狭い風呂に、2DKの汚い部屋。
いざ一緒に住むとなったら、可哀そうだなと思い、新しい10階建て3LDK賃貸に数日後引っ越すことにした。
家具も一新し、彼女の住まいの一式も引っ越し屋を頼みそこに運んだ。
そして、これまでとは違う「誰かの為に働く」という意識が芽生えたのもその頃からだった。


社内では、新しい人材は増えたが、癖のある奴ばっかで、上の立場になってから様々な問題に遭遇し、ぶつかり合って、次第にそこでの仕事に飽きてきた。
既にその頃には40歳半ばになっていた。

ここから、波乱万丈の山場を数々迎えることになるのだが、「自分に自信を無くしたら立ち向かえなくなる。だから自信を持て」と言い聞かせて、乗り越えた次の引っ越し先の群馬県での話はまた次回に。(第三話完)



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