見出し画像

47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで! 営業力開花への第一歩(第二話)

----続きから、第一話まだ読んでない方は、
・・・第一話:47歳までに転職10回以上!波乱万丈な人生を生き抜きました。(第一話)|真淵慶|note
・・・第二話:47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで! 営業力開花への第一歩(第二話)|真淵慶|note
・・・第三話:47歳までに転職10回以上、大手上場企業で年収4000万円稼ぐまで!波乱万丈、営業に一番大切なモチベーション(第三話)|真淵慶|note


そんな時、後輩から「先輩、自分やってる営業の仕事は稼げますよ」と、突然の電話。
彼女とは別れたし、東京にも川崎にも住んでる意味ないなと思い、後輩のいる千葉に引っ越して、その営業の仕事やらにチャレンジする事にした。

あ、その前に、デザイン事務所はその頃既に辞めていて、自分の家でライターとレイアウトやロゴ作成の仕事を取ってきて自営してたんだった。
ライティングは、400字詰め原稿用紙分がその頃1枚2500円という、今では考えられない程高い単価で、1週間に20〜30枚で5万円〜8万円になる楽な下請けだった。
ロゴデザインは大体5万円。
レイアウトは1冊10万円〜15万円くらいだった気がする。
企画から短編小説、ライティング、原稿添削、取材、ポシからのトリミング、レイアウト、ページ割り、版下、タイトルロゴ作成、色指定、製本全ての過程を一人でこなして出版した書籍もある。
芸能人、有名人、アイドルの血液型占いなんてものは、もしかしたら私が最初に出した企画かも知れない。
今から35年前だから携帯電話もパソコンもまだまだ普及してなかったので、その手の企画本は出せば売れていたのだ。

でも、私が200万円でPCを買った時には、「きっとPCデザインの時代になるな」と予測していたのもあって、会社を辞めたのも事実。

仕事中、鶴光のゴールデンアワーを毎日ラジオで流しながら仕事をして、2回ほど採用され、ビデオデッキや記念品を貰った記憶がある。
確か「春が来た」という題材で、電話口で「自分には春は来ない」で最後を締めた話で笑いを取り獲得したのと、もう一つは「モノマネ」の題材の時に、「森真一と桑田と前川清」らのモノマネで獲得した。

また話はそれたが、自営も結局事務も経理も仕事以外にこなさなきゃならなくなったので、しかも支払いは2〜3ヶ月後だし、自営に嫌気がさしてたのも引っ越しを決断した理由だった。

そして、未練を残さず千葉に引っ越したはいいが、仕事の内容は後輩が「自分でも月に100万円近く稼げてるから大丈夫ですよ」の言葉と共に新聞関係としか聞いておらず、よくよく話を聞くとやはり「新聞の拡張員」だった。
まあ、開き直ってた自分なので、朝日新聞の拡張団を束ねる団長とやらに会って話を聞くことにした。

どうやら飛び込み営業らしく、朝日新聞を3ヶ月、6ヶ月、12ヶ月のどれかで契約を取る仕事。
それぞれ当日払いで3ヶ月は2000円、6ヶ月は4000円、12ヶ月は8000円で、日本経済新聞は2000円増し。
月末には販売店ごとの規定超えれば更にプレミアが着く査定で別途残金と共に同程度貰えるらしい。
店からの景品は、ビール券と洗剤のみ。

とりあえずやるしかないので、翌日からやってみた。
初日は店から原付カブを借りて200件回った。
くたくたになりながら断られ続け、後悔だけしかなかった。営業なんかやった事なかったし、紹介してくれた後輩に負けられない。
悲しくて悔しくて、でもその日は0契約だった。
翌日、背水の陣と言うか土壇場の心境で臨んだ。
昨日よりは少し慣れてきた。
夕方初めてまともに話を聞いてくれて景品を受け取ってくれた奥様が、3ヶ月契約をしてくれた。
自分は玄関で跪き深々と御礼した。
それくらい嬉しかったのだ。

団の事務所に帰ると団長がニコニコしながら、「良かったね、早いよ飲み込みが」と褒めてくれた。
翌日は、その団長と回ることになった。

同行した団長にコツを教わった。
「自分にしかない武器を持つといいよ」
わたしはすぐ閃いた。
「サービスを自腹でプラスしよう」と。
早速団長を引き連れ大型店舗に買い出しに行った。
サランラップやトイレットペーパー、ティッシュに食器洗剤。家庭用の消耗品を買いまくった。

その後、ダンボールにたくさんそれらを詰め込んで、自信を持って一軒一軒回り始めると、出てきてくれた主婦から「この中から選べるの」と目を輝かせてくれたので、「いいえ、全部差し上げるので半年新聞宜しくお願いします」と言ってみると、「いいわよ、なんかこんな貰っちゃって悪いわね」と言われたので、「ビール券も差し上げます、そのかわりまた次回も私でよろしくお願いします」と口約束した。

後でわかったのだが、延長は契約にならず、読売新聞など他の新聞取ってるか、未読のお客様しか店かお金貰えないのであった。
でも、他の拡張員に無い薄利多売の方法が自分にあってる気がした。

最初の月は40契約、翌月は80契約、3ヶ月目は120契約とどんどん契約顧客が増えた。
そしてキャッシュでトヨタカリブを買った。
私の営業スタイルは異例の車にどっさり景品を詰め込んだ営業に変化していた。

https://amzn.to/3nBtS7a


そして新参者の私は、4ヶ月目で団のトップになり、毎日3万円の手取り報酬と月末にはまとめで更に100万円近く貰えるほど稼ぐことが出来るようになった。


1年後には千葉の朝日新聞拡張員表彰で1万人の中でトップ10に入りリピート顧客も出来て先行き明るくなった。
しかし、また、転機が訪れた。
結局、そのまま続けてもネットの普及で新聞は衰退してたのだが、ここを3ヶ月前に辞めたI・Y君から連絡があり、プロパンガスの自由化でその営業をやってるらしい。

景気の良い話ぶりなので、会って話を聞く事にした。
そしてその翌月、千葉から神奈川に行く事になった。

自分でも節操がないのはわかってるが、挑戦する事に目覚めてしまったのだ。

行くと相模原にマンション8階の2LDKと車を用意してくれていて、あと、私には引越し代も出してくれたのだが、既に寮のタコ部屋で共同生活の20人ほどいた若者とは別格の高待遇で迎えられた。

しかし、当初は苦戦した。
ガスの切り替えにサービス品は向かないからだ。

来る日も来る日も今回は苦戦した。
1週間経ち、来たことをも後悔した。
しかし、それ以上にチャレンジ精神が勝っていた。
「ガスの営業なんて誰もが初めてで、言わばフロンティア精神(開拓)がある者が勝つんだ」
そう思い直し、既存のプロパンガス会社と弊社の基本料金と単価を説明し、切替の自由化を説明し、どうするかはご自分で選ぶ時代になった事を説明し、更には一軒一軒ノートに書き込み見込みにしながら自分を売り込んだ。

1ヶ月後、完全歩合で50万円、翌月には80万円稼ぐ事が出来る様になり、ここでもすぐ様トップになった。と同時に、マンションの道路向かいにある居酒屋が夜の癒しになっていた。

夜の店を開拓するのも、独身貴族のなせるわざ。

いつしか副社長も私に目をかけてくれて、何人かとその居酒屋に行く事が増えた。
その居酒屋のおかみさんがある日、「明日夕方6時頃契約書5枚くらい持って来な、お客さんに話しといたから、来てくれるから」と言われたので、翌日行くと、カウンターにズラッとお客さんが並んでた。

おかみさん自身も既に契約してくれていて、ガスの供給を切り替えてくれていたが、おかみさんに私はかなり好かれていたらしい。

順々に契約を頂き、その日5件の契約だから切り替え完了すれば10万円になる。
やっぱり営業の醍醐味は、顧客様からの紹介だ。
昔から、すぐに誰とでも仲良くなれる私の特技でもあり、それが営業に生かされるとは考えてもいなかった。
(第二話終わり、第三話に続く)






この記事が参加している募集

やってみた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?