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浅酔いの夢

 一瞬横から強く吹き上げた風が、煙草の先端でじりじりと燃える火種を強くした。それと共に小さな火の粉が宙を舞い、暗く染まる辺りに赤い光を飛び散らせ、そのまま闇に消えていく。そんな目の前の光景をぼーっと眺めていると、咥えていた煙草がふいに口元からこぼれ落ちて、そのまま真下に置いてある、まだ湯気の立つ珈琲の入ったコップめがけて落ちていく。あっとも言えぬ間にそれは、空しい音と小さな水しぶきを立てて、黒い液体の中に沈んでいった。

 折り畳みの小さな机の上で再度お湯を沸かす男は、山の上の湖の畔で時期外れのキャンプをしていた。北の方ではすでに初雪が観測されている。頭のライトが照らし出す、煙草を巻く手がかじかんだ。もったいなかったと呟いて、念入りに洗ったコップにもう一度珈琲を注ぐ。今度は足元に置くのはやめて、机の上に置いた。数分前の、煙草が珈琲の中に落ちていく光景が、コマ送りで次々と頭をよぎる。
 『運命は確率不確かな結果論であるが、観測や思念などのエネルギーの影響を受ける。』いつか読んだ堅苦しい本の中の一節が、遠い記憶から蘇った。植物にはクラシックを聴かせて育てたり、良い言葉をかけ続けた水が綺麗な形の結晶になったりするようなものだろうか。そう紐付けて考えながら、彼はもう一度煙草に火を付ける。寒い日の煙は格別だ。そして、こう頭の中で結論付けた。(古式ゆかしい言霊信仰から、日常起こる些細な出来事にまで当て嵌まような、目に見えないだけでごく当たり前に行われている量子力学的な運動にすぎない。)
 それでもサイコロの出る目を操れる訳ではないだろう。そんなの出たら目だ、と同時に悲観した。

 静寂な辺りに木の葉がざわめきを始め、そんな暇つぶしにもならない自問自答に終わりを告げた。粗く生い茂る木々はすでに、西の山際から漏れる日をほとんど遮り、垂れる枝葉は妖気を放っている。調度良く冷めた珈琲を片手に、彼は浅酔いを嗜んだ。咳込みそうになる冷えた空気が、これまた調度良く頭を冷やし、また次第に頭の中の誰かが大騒ぎを始める。要するに、音にならない独り言だ。
 『人間が想像できる範囲のことは全て実現可能である。』ほら、また始まった。静かになればなるほど、頭の中が騒ぎ出すのを彼は知っていた。また、それを観察するのを楽しんでいた。
 しかし、これもどこかで聞いた誰かの言葉だ。類は友を呼んだり、想うが故に我が在ったりする類の言葉。昨今、それが引き寄せの法則なんて仰々しく呼ばれるのは、物質主義の世をそのまま反映してしてる気もする。

 そんなことを思案している最中、二度目に吹いた強い風が、空にぼやけて広がる雲を退かし、星空を覗かせた。オリオンの大星座の一角に小さく光る、赤い星に目が行く。昔はもう少し大きく光っていたような気がするその星に、何を思ったか彼は再びの輝きを念願した。瞬きも忘れてひたすら見つめ続ける。心臓の音が近くに聞こえる。気まぐれの願いだが、果たしてもう届いただろうか。
 やがて無意識に止めていた息を短く漏らし、もう冷たくなった珈琲を飲み干す。なんの変哲もない、気持ちの良い夜空が広がるばっかりで、その小さな赤い星は最初と何も変わっていなかった。
 「せめて消えてくれるなりしてくれたらなあ。」ファンタジーな頭の中から、無意識に漏れ出た言葉だった。ひとつ背伸びをしてから、彼はテントへと戻る。勝手気ままな無意識の念願は杞憂に終わり、そのまま夜は更けていった。

 地球の反対側にいる人々は、空を指差し目を見開く。ある人は歓喜に湧き、ある人は無関心を決め込み、ある人はただ魅了された。その日から夜空には、満月よりも明るい光が一つ増え、それは数年間輝きを放ち続けた。

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