見出し画像

誕生日は年賀状になった。

「45歳。なんとなく広告代理店やめてみた。」のですが、先月46歳になっていました。

ふぅ。

私の父親が46歳だったとき私は18歳で、進路相談とかで激論を交わしていた記憶があります。

「何を成すにしても『人』そのものを知る必要があると思う。だから、心理学科に行きたい!」

と、私は熱く語ったのですが、

「そんないつカネになるかわからない学科なんてマジで行くの?経済学部とか法学部とか、仕事に直結した学部(それもあわよくば旧帝大系)に行って、役人か大企業への就職を目指しなさい!」

と、冷たく鼻であしらわれました。

ちなみに父親は私立農学部卒。数年の企業(鉄道会社)勤めののち、30そこそこで独立。

「どの口が言うてんねん」と思いながら、だからこその「役人か大企業」発言だったようにも思います。実際「役人と大企業」にはだいぶ苦労させられてたらしく、小学生くらいから「役人と大企業」に対する愚痴をだいぶ聞いていました。

激論はたぶん1時間くらいアーダコーダと続いたあと、チョー不機嫌そうに「お前の人生だから好きにしろ」と言われて終戦。めでたくいくつかの心理学科を受験することができました。そして、ことごとく敗北しました。

さて、

そんな父親と同じ年になった朝、フェイスブックを開くと無数のお祝いが、タイムラインにも、メッセージにも届いていました。(いや、実数は何件かでしたが、感謝の気持ちをかければ無数にも思えたのです)

普段は「いいね」の一つもくれない人や、そもそもフェイスブック上ではいつも存在を消している人からもお祝いをいただいて「僕って意外と人気者?」という錯覚に陥ります。ここ数年の誕生日で一番うれしいことはこのフェイスブックに来るお祝いだったりします。

なので、


すべての方のメッセージには一つ一つお返事を書くことに決めていて、それも「ありがとうございます」だと芸がないので、なんとかひねり出してもう一言を添えて戻すようにしています。

これが、現在進行系で仲良くしている人(※1)とかフェイスブックにコンスタントに投稿しててネタが見えてる人(※2)だとサラサラっと書けるのですが、何年も会ってない人(※3)だと返事するのは苦行。

※1だと「この前ありがとー。また飲み行くべ。」とかだし、※2だと「お子さん、大きくなられましたね」みたいなことでいいのですが、※3は書きようがなくなっちゃう。特に1回くらいしか会ったことがなく、おそらく、今後、実際にあってもぜったいに気づかないような人だともっと書きようがない。

しょうがないので、数年前の会ったときのシチュエーションを思い出し「あの○○のときはありがとうございました」みたいなことでお茶を濁させてもらっています。

とはいっても「なんか懐かしいな。この感じ。」って思ったら年賀状でした。私自身は20年位まえに自分から出すのはやめ、15年くらい前には返事もしなくなってしまったのですが、かつてマメに返事を出していたときはまさにこの「何を書くのかを迷う」を年始の恒例行事にしていて、誕生日のフェイスブックの返信はまさにそれだなと思いました。

未だに気にかけてくれる人の存在に気づいたり、その人のことを思い出させてもらったりするというメリットはそれもまた年賀状と一緒で、めんどくさいっちゃめんどくさいけど、やはりうれしい瞬間なのでした。

トキもカタチも変われど、人のつながりを再確認できるイベントはいいものだと思います。紙を使わない分、エコだしね。

おわり




しがない(ほぼ)無職の中年ですが、サポートしていただけたら喜びます。