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「ごさまる」って何?~護佐丸と中城城~

今回もフロンターレの沖縄キャンプは「ごさまる陸上競技場」で行われます。で、この「ごさまる」というのは琉球王国創生期に活躍した、沖縄の歴史上有数の武将護佐丸のこと。最後の任地だった中城では郷土の英雄とされており、この陸上競技場にも名前が冠されています。そして、その護佐丸の居城が陸上競技場から車で15分ほどのところにある中城城(なかぐすくじょう)です。

沖縄本島は尚巴志という武将(後の琉球初代国王)により、1429年に統一されますが、そのときに頭角を現し始めていたのが護佐丸でした。非常に有力な一族だったようで尚巴志の妻は護佐丸の伯母。また後年、護佐丸の娘は第6代琉球国王の尚泰久(尚巴志の息子)の妻となります。

(今回の写真は中城城ですが、文章とはあまり関係ないです。。。)

護佐丸は、統一当初、沖縄本島の北方の守備にあたっていましたが、中部の豪族が力を持ち始めるとその居城である勝連城(かつれんじょう)を見張れる地に中城城の築城を王に命じられ、自身がその城主となります。

やがて勝連城は阿麻和利という武将のものとなり、その地で阿麻和利の力はより大きくなっていきます。中城城の護佐丸が勝連城の阿麻和利ににらみを利かすという関係が続きますが、阿麻和利の強大化に国王尚泰久は自分の娘、つまり護佐丸の孫である百度踏揚(ももとふみあがり)と阿麻和利を政略結婚させます。

しかし、琉球国を狙う阿麻和利は護佐丸も尚泰久も邪魔。「護佐丸が謀反を企てている」という情報を尚泰久に伝え、護佐丸の軍と首里の尚泰久の軍を相打ちにさせようと企みます。阿麻和利の情報を信じた尚泰久が軍を派遣しようとしたとき、琉球王国創世の頃から国王たちに仕えた護佐丸は、尚泰久に疑われたことそれ自体を恥じて自害してしまいます。

阿麻和利が自分の祖父護佐丸を死に至らしめ、父尚泰久をも倒そうとすることを知った百度踏揚は、仕官である鬼大城(うにうふぐしく)ケンユウとともに首里城の尚泰久に事情を伝え、そして阿麻和利の軍を返り討ちにします。(ケンユウくんは百度踏揚を背負って首里まで走って行ったらしい)

この一連の戦いは「護佐丸阿麻和利の乱」といい、琉球王国史上でもっとも有名な戦いなのではないかと思います。

なんとか国を守った尚泰久ですが、義理の息子に裏切られ、忠臣であり義理の父である護佐丸を自殺させたことにより相当な心のダメージを受けます。彼はその救いを仏教に求め、寺をいくつも建立したり、万国津梁の鐘を作るなどしますが、しかし、騒乱の2年後、失意のうちに生涯を閉じます。

一方、百度踏揚は鬼大城と結婚し、鬼大城は琉球王国の要職につきます。しかし、護佐丸阿麻和利の乱を経た王国は弱体化しており、金丸という家臣のクーデターにあい、鬼大城もそこで敗れて死んでしまいます。

その後、百度踏揚は南に逃れてひっそりと暮らしますが、まだ若いうちになくなったといいます。ちなみに百度踏揚の墓が南城市(那覇から車で30分ほど南)残っているのですが、なぜか陸上競技場に面したところにあって不思議な光景になっています。

ところで、護佐丸は築城の名手としても知られており、中城城も精緻に組み合わされた石積みの城。壁の曲線や階段、門などの造形はいま見ても非常に美しいと思えるもので、江戸に入る前に沖縄を訪れたペリーもその築城技術に感嘆したといいます。また、世界遺産となっている沖縄の城は5つありますが、そのうちの3つ(中城城、座喜味城、今帰仁城)は護佐丸の手によるもの(改築含む)です。

ほかの城もそうなのですが、城というのは見渡しの良い所に作られることが多く、この中城城も海を望むキレイな景色を見ることができます。ここを居城とした護佐丸のことを思い出しながら、その素晴らしい城と、その素晴らしい景色を楽しまれるのもまたよいのではないでしょうか。

http://www.nakagusuku-jo.jp

あ、あと補足ですが、護佐丸阿麻和利の乱については18世紀に書かれた「球陽」という歴史書の内容が有名でここに書いたのもそれを元にした話。「阿麻和利悪いやつ」って話なんですが、一方で彼は地元では大人気だったと言われていて、逆に護佐丸の治世の方が評判悪かったという話もあったりします。


しがない(ほぼ)無職の中年ですが、サポートしていただけたら喜びます。