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【映画評】トム・リン(林書宇)『百日告別』台湾のメロドラマ

良質なメロドラマは観客に媚びることなく、しかも通俗性から逃れてはいけない。メロドラマの普遍性はそのことに尽きる。荒削りだとは思うけれど、メロドラマを、とりあえずそう規定しておこう。

冒頭、交通事故の現場。複数の車が横転し、多くの死傷者を出した模様。
ユーウェイ(シー・チンハン)は妻を亡くし、シン・ミン(カリーナ・ラム)は婚約者を喪う。ユーウェイとシン・ミンは同世代のよう。二人の交通事故死が冒頭の同じ事故によるのか、明確には示されない。だが、合同葬儀の映像で、同じ事故であるとわかる。

警察の聴取で、ユーウェイの前を走っていたトラックが急ブレーキをかけ、そのことが原因で大事故を引き起こしたと、ユーウェイは供述する。トラックの運転手は若者。若者の運転が原因で妻を亡くしたユーウェイ。彼は若者を訴えようとするが、若者も死亡したことを警官から知らされる。警察の調書を盗み見し、若者の自宅の電話番号を紙切れに控えるユーウェイ。不満のやり場のない彼は、怒りをぶつけようと若者の家に電話する。電話口に出たのは若者の母親。涙ながらに怒りをぶつけようとするユーウェイ。だが母親は、彼を自分の息子と思い込み、「なぜお前は泣いているの、お前が死んで悲しくてしかたない」と泣きながら訴える。母親の声に、近親者の死を前にした者の悲しみをユーウェイは感じる。

婚約者を失ったシン・ミン。彼女は恋人の遺体に触れることもできない。恋人の母親から、触れると成仏できないと拒否される。葬儀でも他人扱いだ。

婚約者の家族はシン・ミンのマンションから息子の荷物を引き揚げる。まるで無縁であるかのようなシン・ミン。
彼女は恋人との思い出の詰まったマンションを売却することを決める。

ユーウェイの妻はピアノ教師だった。彼は妻を喪った苦しみの中、妻の生徒の家を訪ね歩き、月謝を返却することにする。
生徒の家族は月謝を受け取ると、ユーウェイを追い返すかのごとく扉を閉じる。だが、とある生徒の部屋から、妻が弾いていたショパンのエチュードが聞こえた。ブザーを鳴らすると、一人の少女が姿を現した。
彼女は、妻の死後、レッスンのためにユーウェイのマンションを訪ねてきた少女だった。だが、彼は理由も告げず冷たく追い返したのだった。少女はピアノの先生を変えたのだが、新しい先生の選んだ曲は好きになれず、ユーウェイの妻が選んでくれたショパンのエチュードを発表会で弾くのだと述べた。妻のことを初めて話してくれたことに、彼は救われたような気がした。

シン・ミンの死んだ婚約者は調理人。結婚後、シン・ミンは夫のレストランを手伝うことになっていた。
シン・ミンは沖縄を訪れることを決意する。手には、沖縄の料理店の切り抜きで作った自作の食べ歩き手帖を持っている。手帖に書いてある料理店を一軒一軒食べ歩き、星でランク付けをする。映画を見ているわたしたち観客には、なにゆえ沖縄旅行なのか、意味が理解できない。だが、ホテルのレセプションで、シン・ミンは婚約者との二人分のパスポートを見せることから、沖縄旅行は、亡き夫との、すでに予定されていた旅行であると理解する。そして、食べ歩き手帖の最後のページに、それは新婚旅行であることが示される。レストランのメニュー開拓のために、二人で作った手帖だったのだ。

ユーウェイの物語もシン・ミン物語も、あまりにも通俗的すぎる物語進行だが、愛は本来的に通俗的である。情緒と情感への直接的な訴えかけという通俗性の意味において、本作品はメロドラマと言っていいだろう。

ユーウェイとシン・ミンの二つの時間が、交差することも少なく、並行して描かれてることが面白い。時間が交差すれば物語の劇性は増すのだが、時間は交差するかのようで平行に流れ、劇的な物語へと移行することはない。

だが、わたしたちはその後、彼と彼女の、〈自死〉と〈生〉の領域という交差を見出すことになる。

マンションのベランダから飛び降りようとするユーウェイ。
ベランダのテラスから身を乗り出そうとするが、向かいのマンションの部屋に彼の姿を見つめている子どもに気づく。子どもの存在で自死を思いとどまる。そう、死んだ妻は子を宿していたのだ。

そして、魚に毒物と睡眠薬を入れ調理するシン・ミン。
彼女は自殺を企てようとしている。食べることによる自死は、沖縄の食べ歩き旅の終着点なのだろうか。それは、亡き婚約者に近づき、寄り添うことでもあるのだろう。食卓に並べらているのは、婚約者と一緒に調理するはずだった料理。これが最後の晩餐である。
シン・ミンは料理を口に運ぶ。次第に意識が朦朧となり床に倒れる。
夜が明け、床には横たわるシン・ミンと、体が拒絶したのか嘔吐物が。彼女は生の領域にとどまっていたのだ。

出口のない悲しみの迷路から抜け出せない二人が自死へと向かいながらも、生の領域にとどまるという交差の描き方は、さりげなさという点で巧みである。
そして事故から百日。百日告別の合同法要。二人はそこで再会する。帰りのバスの中、二人は簡単な言葉をかわす。映画はこのシーンで終わる。

ここから新しい生が始まるのだろうか。そして二人は同じ時間を共有するのだろうか。それは示されない。
映画は物語へと移行させようはしない。交差する時間のさりげなさを呈示することで、十分に物語たりえている。そのことに共感できる。

本作品のタイトルは「百日告別」。つまり、告別百日である。百日経つと故人と離れ、新しい人生を送ることができる。

ユーウェイを演じたシー・チンハとシンシンを演じたカリーナ・ラム。前者はミュージシャンで、後者は女優。どちらも魅力的である。再びスクリーンで出会えることを期待して。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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