【映画評】 山戸結希『おとぎ話みたい』 フレーム内に物語を召喚することばとことばをフレーム外に放出させる身体
(写真:山戸結希『おとぎ話みたい』予告編より)
ことばがフレーム内に物語を召還し、それが主演・趣里(女子高生・しほ役)の身体の一回性(=ダンス)に引き受けられることで再びことばを放出する。いや、引き受けるというのは間違いだ。ことばと身体の一回性に引き “受ける/受けない” という関係性は本来的にはない。関係性には、ことばと身体とのある種の回路を必要とする。引き “受ける/受けない”ではなく、趣里の身体の一瞬のかがやきが膨大なことばを生み出し、身体とことばが軋みという回路(=交通)を見せているのだ。その軋みは、物語を趣里・女子高生の自意識へと召還させると同時に、自意識の鎧から、まるで遠心力を獲得したかのように、フレームの外部へとことばを弾き出す。
事の起こりは簡単だ。卒業を間近に控えた女子高生の趣里が廊下でダンスを踊っているところを、社会科教師・新見(岡部尚)が通りかかる。新見は彼女にビナ・バウシュ(1940〜2009ドイツのコンテンポラリー・ダンスの舞踊家・振付師)とローザス(ベルギーのコンテンポラリー・ダンスカンパニー 1983年結成)のことを話し、そのビデオを貸すという。新見先生とは、東京から文化的匂いを持ち帰った社会科の新任教員。この田舎に、ビナ・バウシュとローザスを知っている人がいることで、女子高生・趣里は新見に恋をしてしまうのだ。本作は、「ビナ・バウシュを知っている人間が、ローザスを知っている人間が、この半径1km圏内にいて生息していることの衝撃がわたしの身を貫いた」(モルモット吉田『映画芸術』446号)ことの趣里・女子高生の驚きと共感の恋愛映画なのだ。それは女子高生の淡い片思いという一回性であるとともに、ダンスという身体の一回性の映画でもある。
身体の一回性は「自己の露出」であることで卑しい、と彼女は思うが、それは身体の一回性が纏う必然的な卑しさであり、避けることのできない、いわば不可知でもある。だが、なおそのことの卑しさから自由でありたいと志向する彼女。その自由を獲得するために、身体の一回性の輝きから膨大なことばを放出させる力学を試行しようとする。ところがその試みの中で、フレーム内に召還された物語はフレームに留まることはないという背理。フレームの外部へと物語を向かわせるのは時間である。時間とは、すでに “老いている” という女子高生であるわたしと、“子ども” である新任教員・新見先生。老いという未来と子どもという過去。フレーム内の、もしかするとフレーム外にブラックアウトするかもしれないただごとではない様相の〈未来 / 過去〉時制の不意の出現。身体の一回性の遠心力はこの疑似時制というフレーム外へのベクトルを物語に付置させ、ことばと身体を軋ませることで新たな物語を発生させる。その結果、身体とことばはフレーム〈内 / 外〉へと自由に往還する奇跡を生成する。それを可能にするのは、ロックバンド《おとぎ話》の弾けるような音の粒子とリズムである。こんなにも自由で、背理といった理性への背信をみごとに音楽に溶け込ませた映画がこれまでにあっただろうか。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
おとぎ話 “COSMOS”(MV) 監督:山戸結希 / 出演:趣里
山戸結希『おとぎ話みたい』予告編
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