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【映画評】 アグニエシュカ・ホランド『人間の境界』

アグニエシュカ・ホランド『人間の境界』(2023)

アグニエシュカ・ホランド作品を見るのは本作が二度目である。はじめて見たのは2012年12月、『ソハの地下水道』(2012)。劇場は今回と同じ京都シネマ。『人間の境界』は森の映像で始まるのだが、『ソハの地下水道』にも森が出現した。それは映画冒頭だった。その日の映画日記に、わたしは次のように記している。

目の前に深い森が広がり、雲で遮られた鈍い光が辺り一面を包み込んでいる。不意に樹々がざわめきはじめ、森に不穏な空気が広がる。女たちの叫声が聞こえたかと思うと、森の中を逃げ惑う夥しい全裸の女たちを俯瞰で捉える。銃を構えたドイツ兵たちに追われるユダヤ人の女たち。フレームから彼女・彼らが外れ、銃声が響きわたる。ナチス支配下のポーランド・ルヴフの森の情景である。アグニエシュカ・ホランド監督のポーランド映画『ソハの地下水道』。冒頭のシーンだ。

「映画日記」2012.12.22

さらに物語についての記述が続き、「145分の長編だったが、長さを感じさせることのないストーリー展開と巧みなショットに見入った」。

この記述で終われば「物語」としては『ソハの地下水道』を評価した作品となるのだが、「映画」としては批判らしきことも記している。

上映中、ずっと違和感があり、わたしはモヤッとしたどうしようもないキモチだった。フレーム内の光が乾いていて湿りがないのである。地下水道という〈水〉そのものが頻出するのに水を感じさせない。地下水道が舞台だからといって水の映画になる必要ないのだが、それでも……。アジア・モンスーン気候を全親身に纏うわたし。たとえ砂漠の映画であったとしても、映像の湿りは不可欠な要素である。もしかすると、フィルム上映ではなくデジタル上映が影響しているのかなとも思った。フィルムという表面は予め大気中の水分を纏っており、光の透過で像としてスクリーン上に立ち現れる映像には水の反照が見られる。そんなことで、デジタル上映が影響しているのかもしれないと思った。しかし、先月見たジェームス・ベニング『ナイトフォール』(2011)はデジタル撮影・デジタル上映だったけれど、全編、湿りに満たされていた。 カリフォルニア・シェラネバダ山脈の森の、夕刻から夜へと移ろう淡い光のリアルタイムの98分の記録。湿気をふくんだ光がよく表現され、闇に包まれた森にも水の気配を感じさせる。まさに、〈水〉の映画であった。固定カメラによるほとんど変化のない、闇へと向かう時間の推移を捉えた作品だったのだが、わたしは水で満たされ、そのことだけで幸せだった。

「映画日記」2012.12.22

そのとき、『ナイトフォール』に限らず、タルコフスキー作品に代表される映画史における水の記憶と、『ソハの地下水道』における水の不在を思ったのである。『ソハの地下水道』についての否定的な言辞のようにみえるけれど、必ずしも批判しようしたわけではない。ただ単に、水の不在が気になったのである。
そんな前提を頭の片隅におきながら『人間の境界』を見て驚いた。

映画冒頭、俯瞰で捉えられた森の緑と英語タイトル「Green Border」の白抜きフォント。と間もなく、森の緑とタイトルの白は色彩として反転し、緑のタイトルとモノクロ映像の映画となる。
この色彩の変位に、水に溢れることの苦悩の気配を、わたしは本作に感じた。

映画冒頭の森の緑はすでに水を蓄え(ウォン・カーウァイ『欲望の翼』(1990)の森を思い出す)ており、タイトル「Green Border」は白抜きフォントとうより、モノクロ、黒へと向かう、苦悩としての世界の呈示なのではないかと。その後の森の緑と白のタイトルの反転による映画のモノクロ映像に、アグニエシュカ・ホランド監督の、2020年代の世界に向ける強い意志を感じた。

その後の物語の推移からもわかるように、本作は水の映画である。だが、単なる水の映画ではない。ウォン・カーウァイ『欲望の翼』は水に覆われることで発生する精神と身体の快楽(快楽には精神的苦悩も伴うのだが)を描いた作品なのだが、本作はその水による精神と肉体の苦悩の直接性を描いた作品である。苦悩の発生する場は、ベラルーシとポーランドの境界として、国家により人為的に引かれた「Green Border」である。そこはいかなるものにも所属しない地帯でもあるから、無防備な、いわば逆説的に開かれた苦悩であるしかない。ベラルーシ、ポーランド、そのどちらにも属さない湿地帯「Green Border」。「Green Border」に追いやられ、なす術のない難民たち。難民とは国家間の争いで棄民として追いやられた人間であり、そこにある水は歓びも快楽ももたらさない、苦悩でしかない水である。無防備な水に溢れる「Green Border」。その苦悩は開かれているがゆえに(いまここで、ロベルト・ロッセリーニ『無防備都市』(1945)の原題『Roma città aperta』を思い浮かべている)。「città aperta」とは逆説的に「開かれた(非武装)都市」のことであり、なす術をもたない都市のことである。難民も開かれた身体としてあるといえる。

ここでは物語については省略するが、当時のニュースと作品のサイトを参考に、映画冒頭に引きつけながら、「Green Border」について簡単に再記してみたい。

2022年のロシアによるウクライへの全面的な軍事侵攻が始まる前年、親ロシアであり独裁国家であるベラルーシ政府は、2021年9月、ロシアと対峙するEUに混乱を引き起こす狙いで、大勢のシリア人難民をベラルーシからポーランドへと移送する“人間兵器”と呼ばれる策略を行なった(映画ではポーランドを題材としているが、ベラルーシと国境を接するラトビア、リトアニアに対してもこの策略は行われた。また、シリア人に限らず、イラクからの難民も含まれる)。「ベラルーシを経由すればEUに入国できる」という情報を流し、多くのシリア難民が、ベラルーシ・ポーランド国境に押し寄せ、EUへの国境を越えようとする状況を作り出した。難民の多くはインターネットの広告「欧州に簡単に行けます」を見つけ逃れてきたという(日経ネット)。ポーランド政府は同年9月、EU諸国への亡命を求める難民を押し返そうと、国境付近に緊急事態宣言を発令(ラトビアとリトアニアも同様の宣言を発令)。難民の受け入れを拒絶したうえ、ベラルーシに強制的(あるいは暴力的)に送り返した。ジャーナリスト、医師、人道支援団体らの立ち入りも禁止した。入国を拒絶された難民はベラルーシ、ポーランド両政府から拒まれ、「Green Border」で立ち往生し、極寒の森をさまよい、死への恐怖に晒された。

(これは映画のシーンではない。写真「ロイター」)
(これは映画のシーンではない。写真「ロイター」)

映画のポーランド語原題「Zielona Granica」は直訳で「緑の縁・国境」。ベラルーシ・ポーランド間の野原・森などのなかに人為的に引かれた真っ直ぐな線(人為的国境)と川の流れに沿って蛇行する線(自然国境)で、いわば国家間の緩衝地帯となる緑の国境(Green Border)である。

先述したように、映画は俯瞰で緑の森林を捉えたカラー映像ではじまり、そこに英語タイトル「Green Border」が白抜きフォントで現れる。そしてまもなく、色彩は反転し、森林はモノクロに、タイトルは緑色に変わる。白色という冷温の森林と、緑という暖温のタイトル。現実と建前。いわば、国家の見せかけの「暖」と、難民の現実である「冷」が、映画冒頭で示されるのである。国家は何を守るのか、それは人間ではない。この場合の人間とは難民に限らない。自国民も守らない。国家が守るのは国家であり、そのためには自国民をも犠牲にする。これは歴史が示す教訓である。

アグニエシュカ・ホランド『人間の境界』予告編

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