見出し画像

【映画評】 アラン・クラーク『SCUM/スカム』なにかが覆う閉塞感

空は晴れやかだというのに、往き交う人の表情に閉塞感が覆っている。なんとも言い難い空気感が漂う社会。もしかすると2回目の巣篭もりとなるかもしれない。街には再び正義の自警団とやらの出没する不気味な社会になるのだろうか。これは見えないものへの恐れが精神を閉塞させる、見えないのものによる見える現象化という病だ。

いまから映画を見に行こうとしているわたしなのだが、眼の前の情景に感染したかのように、わたしの気持ちも外へと開かれることはなく、内へ内へと向かっている。なにがそうさせているのか。それは分かっているようで、実はその実態を理解しているとはいえない。いや、理解しようにもなにも見えていない。これが不可視の病というものである。 

アラン・クラーク『SCUM/スカム』(1979)にはロイ・ミントン、アラン・クラークによる同名のTV映画(英国BBC制作)が存在した。少年院の人権を無視した暴力的な管理システムを赤裸々に描いた作品なのだが、BBC上層部の検閲に引っ掛かり放送禁止(*)となった。

しかし製作陣は劇場版としてリメイクを果たし、その暴力表現が映倫の検閲によりX指定を受けたものの、社会に不満を持つ怒れる若者たちが多く詰めかけたという。残念ながら日本には紹介されることもなく、製作から35年経た2014年、ようやく上映されることになった。日本も不可解な様相に満ちた世界だ。

アラン・クラーク『SCUM:スカム』-3

世界とは不可視な装置のことである。この命題は正しいように思える。そして、これからも不可視であることは真理としてあり続けるようにも思える。ときにはそのシステムの中に溶け込んでいるわが身を呪ってみたくもなるのだが、そうしたところでシステム外へと解き放たれることはなく、わたしたちはおしなべてみな〝SCUM/スカム〟であると了解する。だから、内へ内へと向かうことで、世界を忘却するしか術はない。

scumとは「(池や水面の)浮きアカ」「人間のクズ」という意味だ。

階級社会。既成秩序に不満を抱く労働者階級の若者。暴力装置。知の権力装置。権力に奉仕する暴力と知。自殺の隠蔽。経済格差。人種差別。体制側のクズたちの下にクズ同士の争い。菜食主義者を装う知。権力の下で暴力は支配装置となる。塀の中での出来事は内部化される。

塀とは少年院、それは私たち塀の外の社会も塀の内と同値である。わたしたちの社会において、暴力と知は権力に奉仕する限りにおいて善とされるが、権力に向けられると途端に悪とされ、弾圧の対象となる。

現代の映画表現において、この本作品『SCUM/スカム』の暴力そのものは必ずしも突出しているとはいえない。この作品が排除の対象となったのは、〈スカムvsスカム〉の暴力が描かれているからではない。権力装置内での階級に置ける暴力が描かれているからである。

ネット上にイラストレーターの石川三千花が『SCUMスカム』について述べている。「誰ひとりとして、幸せな顔をしている人間が出てこない映画。残虐で陰湿で、救いようがないスカム(人間のクズ)たち。しかも、エンディングの突き放しっぷりはどうだ!? 何のカタルシスもなく、塀の中には相も変わらずどんよりとした灰色の空気が漂うだけだ。」(KING MOVIES Review「塀の中のスカム模様は、色あせない」2014.10.14)

塀の中の階級構造は塀の外、つまりわたしたちの世界と同値である。この映画は、このことを改めて認識させてくれる。だが、この映画の最大の魅力は、自らの行為により、独房という社会との接点を遮断された世界に押し込まれることが分かっていても、権力という頭上の力に槍を突き刺そうとする少年の行動の、瑞々しいほどの爽快さである。

(*)フランス語版Wikipédiaには、1991年に一度だけ放送されたとある。また、監督のキム・チャピロンと脚本家のジェレミー・ドゥロンは、本作品からインスパイアされた『Dog Pound(La Fournière)』(2010年カナダ・ケベック)を制作している。『Dog Pound(La Fourrière)』に、ニューヨークのTriBeCa映画祭で新人監督賞が贈られた。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

アラン・クラーク『SCUM/スカム』予告編



この記事が参加している募集

映画感想文

サポートしていただき、嬉しいかぎりです。 これからもよろしくお願いいたします。