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【映画評】 レナーテ・ザミ『チェザレ・パヴェーゼ、トリノ - サント・ステファノ・ベルボ』『ブロードウェイ 95年5月』。声となり眼となり

ドイツの映画監督レナーテ・ザミ(Renate Sami 1835〜)の2作品『チェザレ・パヴェーゼ、トリノ — サント・ステファノ・ベルボ』『ブロードウェイ 95年5月』のメモを整理しながら、もし再見できればレビューとしてまとめたいと思っていた。しかし、ドイツでもマイナーな監督であり、まして、日本の地方に住んでいる者に再見の機会はそう簡単には訪れない。このままでは忘却の一途をたどること間違いないだろうから、筋道が見えないながらもメモを再構成し、記事として掲載することにしました。

『チェザレ・パヴェーゼ 、トリノ — サント・ステファノ・ベルボ』Cesare Pavese. Turin – Santo Stefano Belbo(1985) 

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映像と言葉。本作品では、とりわけ語りとしての言葉が重要な地位をしめる。単なるドキュメンタリーでも物語でもない。小説の言葉、日記の言葉、インタビューの言葉、そして作家パヴェーゼの死(1950年)と撮影時(1985年)の映像。それを見ること、聞くこと、すべては観客の想像に委ねられている。

「一月の最後の雪が降りしきるトリノに、わたしは軽業師や駄菓子売りの行商人のように着いた」(パヴェーゼ『孤独な女たちと』)。
ヒロインである「わたし(クレーリア)」は、出自である貧困から身を起こし、一流のファンションデザイナーになった。孤独な生活を守りながら、誰にも告げず、独りで故郷の駅頭に降り立った。トリノの街に再会し、ホテルの熱い湯に浸かり、「わたし」はトリノにはほんの少しだけしか滞在するつもりはなかった。

本作品における「わたし」とは、レナーテ・ザミ監督のことであると言ってもいいだろう。この映画はペトラ・セーガーを共同監督としているが、とりあえずはレナーテ・ザミの名を明記しておこう。

17年ぶりのトリノの地を踏んだ「わたし」は、17年前にトリノを捨てたときの自分を見出さなければならない。
トリノの地に立つとは、いわば失われた過去を求めることでもある。そのためには、トリノという街を歩かなければならない。ベンヤミン的に述べるなら、過去といまだ癒えぬ現在、それを知覚レベルで捉えることである。そして歩くことによる「靴の底ざわり」、という身体レベルでも。

パヴェーゼの『孤独な女たちと』では、「わたし」が生まれ育ったバジーリカ街やポー街、サン・カルロ広場、大衆酒場街、カステッロ広場、グラン・マードレ教会、聖ジョヴァンニ広場、チッタ宮殿、等々が出てくるのだが、トリノに行ったことのない映画を見るわたしには、映像と原作の舞台がはたして符号しているのかはわからない。だが、本作品は原作の舞台をたどる回想映画ではないのだから、原作との整合性をそれほど必要とはしないだろう。

チェザーレ・パヴェーゼはネオレアリズモ小説の第一人者と言われるイタリアの小説家である。
戦時中、反ファシズム、マルクス主義者としてレジスタンスに参加し、逮捕される。

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彼の作品はネオレアリズモ文学の源流と言われていたが、鬱病で苦しみ、彼の小説の登場人物がそうであるように、たえず死の影を漂わせていた。
1950年、トリノ駅前のホテルの一室で服薬自殺。42歳の若さだった。

パヴェーゼの小説は女性一人称の声がすると言われることがある。
映画『チェザーレ・パヴェーゼ、トリノ - サント・ステファノ・ベルボ』も、やはり女性の声による一人称語りで始まる……小説『月と篝火』の主人公(男性)ですら、まるで女性一人称であるかのごとく語られるではないか……。それは、小説の主人公が、監督のレナーテ・ザミに憑依したかのようでもある。その異形の変位により、『孤独な女たちと』『月と篝火』の登場人物たち、そして不在のパヴェーゼが、死の影を漂わせながら、トリノやパヴェーゼの故郷であるサント・ステファノ・ベルボの風景に立ち現れてくるように思えた。

本作品には、若き日の友人で、ヌートのモデルとなった男が登場する。
ヌートとは、小説『月と篝火』の主人公の年上の友人である男性である。
彼によれば、「ヌート」という名の由来は、「よくいらっしゃいました」のイタリア語「ベン・ヴェヌート」から得たということである。ニタリと笑ってしまうではないか。

ヌートのモデルとなった男は、パヴェーゼのレジスタンス活動や、死の直前までの生活・創作について語る。
だが、監督ザミは、それを単なる解説に終わらせることなく、パヴェーゼとヌートの周辺、例えば部屋の家具調度品や壁紙、そして彼らの日常の手仕事のような情景を丁寧に撮ることで、パヴェーゼの日常の痕跡を浮き彫りにしている。それが女性の語りとともに、トリノやサント・ステファノ・ベルボの風景に溶け込み、パヴェーゼへの敬愛と哀悼になっている。さすが、レナーテ・ザミの見事な手仕事であると驚いた。

『ブロードウェイ 95年5月』Broadway Mai 95(1996)

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本作品は、映像日記、眼と音による日記である。
写真と粗い映像(8ミリ映像だろうか)により構成されている。

ザミの眼は、ヨーロッパ人がはじめてニューヨークの地に足を踏み入れたかのごとく、色彩とスピード感あふれるブロードウェイへと眼差しを奪われる。
ザミの眼は落ち着かない。一点を見つめるかと思いきや、カクン、カクンと、まるで愛嬌であるかのごとく眼差しは15度ずつパン。映画的技術で撮ろうなんて少しも考えていない。
緩やかに視線を移動するなんてことは到底できないほど、見るものすべてが新鮮すぎる。
高揚する気持ちの波立ちに忠実に、カメラという眼はザミの身体の眼となり、カクン、カクンとパンしながら、5月の空の下、気づくとブロードウェイの南端から北端へと進んでいた。
レナーテ・ザミの眼差しの自由さは、彼女の映画を考える上でとても大切だろう。カクン、カクンという移動の断続性、眼の不連続性により、彼女の映画は単なるドキュメントでもフィクションでもない事態を発生させる。
そして、見ることに集中するあまり、映画を見るわたしは、いつの間にか耳の存在を忘れてしまっている。これはサイレントではない。音声による語りの欠如に一時的な記憶喪失になったのではなく、本作品は眼差しによる語りの映画なのであるということだ。
だから音は断片的でしかなく、高架を走行する地下鉄8番街急行のショットで突如鳴り響くビリー・ストレーホーンの「A列車で行こう」に、わたしは驚きを隠せなかった。カメラを回すザミは、このナンバーを口ずさんだのだろうか。

わたしが上記2作品を見たのは元・立誠シネマ(2017年5月)なのだが、ネットで調べると、2014年、《レナーテ・ザミの世界》として、東京のドイツ文化会館、映画美学校で下記の8作品が上映されている。
『いずれ誰もが死ぬ、ただ問題はいかに死ぬか、そしていかに生きるかだ』(1975)
『保護箔』(1983)
『チェザーレ・パヴェーゼ、トリノ - サント・ステファノ・ベルボ』(1985)
『ピラミッドと共に』(1990)
『お前がバラの花を見たならば』(1995)
『ブロードウェイ 95年5月』(1996)
『映画日記 1975—1985』(2005)
『リアーネ・ビルンベルクの工房と彼女の父ダーヴィット・バルフ・ビルンベルクの物語』 (2007)
同年、同じく東京のESPACE BIBLIOで
『一年』(2011)
これら作品群が、眼の前をかすめることすらなく消えてゆく地方人の悲しみ。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

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