見出し画像

【映画評】 告白の幾何学夢譚。ラウス・ルイス監督『ミステリーズ 運命のリスボン』、福永武彦『忘却の河』

わたしたちは過去という固有の時間(=物語)を持っており、固有の時間を告白することで物語は相互に交差しあうという現象が起きる。固有の時間(=物語)、それを記憶と名づけてもいい。

修道院に預けられた孤児ジョアン、彼には姓はない。姓とは出自の記憶であり、ジョアンには出自の記憶が隠蔽されている。
ジョアンが自らの出自に関する謎を探り始めるところからラウス・ルイス監督『ミステリーズ、運命のリスボン』(2010)は始まる。だが、謎を解くのはそう容易いことではないだろうし、不可能であるかもしれない。

『ミステリーズ、運命のリスボン』(以下『ミステリーズ』)は、愛人であったり、姦淫であったり、逃避行であったりの、いくぶん胡散臭さを漂わせもする男と女の物語である。

世界とは、男と女の抜き差しならぬ記憶……『ミステリーズ』の抜き差しならぬ記憶とは打ち明けぬ「秘密」のことである……の交差のことであると、この映画は示している。

記憶の交差は秘密の告白という形で表出される。告白しなければ忘却となすから交差することはない。ところがこの告白は曲者であり、『ミステリーズ』では、告白することで語りの主体と対象との関係が不明瞭になる。たかが交差のいくつかの呈示に過ぎない……といっても四時間半におよぶ……映画なのだが、上映が終了し、多くの観客が難解で腑に落ちないと述べていたのは、告白することで関係が不明瞭になることに起因するように思えた。

『ミステリーズ』はジョアンの出自の記憶をめぐるスリラーともいえる。
記憶は過去への旅にとどまらず、やがて記憶となるかもしれない未来への旅の物語でもある。記憶とは過ぎ去った時間とは限定できず、未来の時間、それも記憶なのだと、この映画は語っている。

この、過去から未来へとたどる記憶の堆積に押しつぶされるジョアン。彼は15歳で息をひきとる。ボルヘスが小説『記憶の人・フネス』で呈示したように、自然数の配列以上の記憶を持つあまり、ついには肺の充血で若年死したフネスのようでもある。

世界は秘密に満ちている。わたしの中にも秘密があり、他者の中にも秘密がある。それは過去の想起であるのかもしれないし、未来に向かうことなのかもしれないのだが、表面張力で安定を保っていたコップに満ちた水がふとしたことで均衡が破れ、コップの縁から流れ落ちるように、ときに心の中で充溢した秘密もわたしたちの外部へと溢れることがある。それは音声、あるいは書かれたものとして表出されるのだが、そのどちらも言葉であるということができる。そのとき、その言葉のことを、わたしたちは〈告白〉と名づけることを知っている。

それが単一者による自己への告白であるとき、アウグスチヌスの、あの良く知られた著作のように、言葉は話者の内部の方、内省の領域へと深く向かい、他者は傍観者にとどまるしかない。ところが告白する者が複数であるとき、他者は傍観者にとどまることはできず、複数者の告白がいかなる方向性を有しているのか、その方向性に介入はできないにしても、安逸であることはできない。

告白の方向性とは奇妙な表現なのだが、複数者の告白がいかなる時間や空間を纏い、その纏うがゆえの、発せられた複数者の言葉たちが交差〈する/しない〉という意味での方向性である。

たとえば、ユークリッドの平行線公理では、一つの直線と直線上にない任意の一点に対し、平行線の唯一性が公理として保証されている。ところがロバチェフスキーの非ユークリド幾何では平行線の唯一性は担保されず無数に存在し、リーマンの非ユークリド幾何においては平行線そのものが存在せず、どの直線もやがては交わる。

ニコライ・ロバチェフスキー(Nikolai Lobachevsky 1792〜1856 ロシアの数学者)の非ユークリド幾何学(双曲線幾何とも呼ばれている)の平行線について
(*)「平面上で、直線外の一点を通って、この直線と交わらない直線は少なくとも2つ存在する」

『岩波数学辞典第2版』(岩波書店)

ベルンハルト・リーマン(Bernhard Riemann 1826〜1866 ドイツの数学者)の非ユークリド幾何学(楕円幾何とも呼ばれる)の平行線について
(*)「平面上で、直線外の一点を通り、この直線と交わらない直線は存在しない」

『岩波数学辞典第2版』(岩波書店)

告白と幾何学との結びつきなどという愚にもつかないことを考えたのは、古本屋で購入した福永武彦の告白(独白)小説『忘却の河』(1964)を読み、不意に『ミステリーズ』を思い出したからである。

直線を告白、交わりを告白の交差、恥じらいもなくそう読み替えてみた。たとえばリーマン幾何においては複数者の告白は交差し、ロバチェフスキー幾何においては交差しない。

ここでひとつの仮説を立ててみた。
「交差する告白とは〈映画〉のことであり、交差しない告白とは〈文学〉のことである」と。

いささか性急すぎる印象を拭えない仮説なのだが、2つの優れた映画と文学を前に、わたしをこの性急さへと向かわせる抗し難い情動を覚えたのである。

『ミステリーズ』は孤児ジョアンを取り巻く複数者の告白……それも時系列で語られるとは必ずしもいえない複数者の告白……は他者の物語への介入と修正を要請し、エッサイの樹形図のように縦に時間軸、横に人間軸を必要とするダイナミックな構造を成している。それは19世初めの因習に囚われた貴族や成り上がり者、情熱と欲望、そして復讐に駆られた男と女たちにとどまらず、ポルトガル、スペイン、フランス、ブラジルといった地勢的な広がりをも有する樹形図といえる。ところが、この映画をより難解なミステリーへと向かわせるのは、告白が交差することで語る主体と対象との関係が不明瞭になり、それとともにミステリー解明に必要ともいえる軸をも見失ってしまいそうになるからである。

映画とは始まりと終わりとがあらかじめ定められた単調で不可逆な時間の流れにすぎないのだが、『ミステリーズ』を見る者たちは、時間とともに更新されてゆく眼前の映像に、過ぎ去った時間をレイヤーとしてとどめてゆく作業をも要請されるのである。だが、しばしば現れる館の壁面を飾るフレスコ画の寓話やアズレージョの挿入ショット、そしてとりわけジョアンの孤独を癒す劇場の書き割りのマケットにミステリーを解き明かす鍵があることに気づく。

ラウス・ルイス『ミステリーズ 運命のリスボン』-2

マケットで演じられるジョアンの空想は複数者の告白でもあり、それが交差することでジョアンの記憶(=堆積した物語)へと収斂する。そしてその記憶は告白されることもなく、記憶の人・フネスのように、交差の堆積とも思えるジョアンの死という結節点が呈示され、物語は終焉するのである。

福永武彦の小説を読んだのは『忘却の河』がはじめてだと思う。「だと思う」としたのは、10代の終わり、友人が持っていた短編集に、『忘却の河』の文体に似たものがあったからだ。友人が面白いぞと言うのでその場で読んだわけだから、勧めてくれた短編はおそらく10ページ前後だったろう。ずいぶん昔のことだからなんともいえないけれど、文体の醸し出す雰囲気が良く似ているのである。いや、その短編が福永の作品で〈ある/なし〉の真偽などどうでもいい。『忘却の河』を読んだ後では、あのときに読んだ短編は福永の作品であるといっても許されるような気がする。それは、『忘却の河』が夫、妻、二人の娘の四人の、それも〈真/虚〉をも含めた告白(独白)文学だからである。

四人にはそれぞれ秘めた異性……自殺した恋人であったり、不倫相手であったり、戦死した男だったり……がいるのだが、『ミステリーズ』と異なるのは、告白が、他者へと届くことはないであろう所(それは告白する者の内部)に向けられていることである。四人の告白はそれぞれ関連するものの、自己へと向けられた告白は交差することはないから、他者の物語の補完、あるいは修正にとどまり、『ミステリーズ』のように、他者への介入と修正を要請することはない。四人の告白が互いに矛盾したとしても、告白は整合的であり、物語は保障される。

『忘却の河』では告白は交差することはないと述べたけれど、母親が愛し、すでに戦死してしまった男が次女の実の父親であったということで次女は母親と和解し、長女は父親の勧める男と結婚することで父親と和解する。しかし、これは互いの内部での和解ということであり、告白が交差したことによるわけではない。

では、なぜ『忘却の河』における告白は交差しないのだろうか。それは身体の現在性と、文字特有の時制の欠如ではないのか、と考えた。

映画においては眼前の上映という現在形でありながらも演ずる身体との直接性はない。映画は俳優という現在の身体を必要とする。過去を表現する上でも身体の現在性においてしか演じられず、現在を介さなければならいため、過去との直接性はない。現在形でありながら直接的なものは併存できないという、いわば矛盾めいた容態を内に秘めているのが映画といえる。

ところが文学の場合、文字という時制を欠いた記号を用いるわけだから、たとえ過去であろうが未来であろうが、文字の時制の欠如ということで、逆説的に、書かれたものの時制との直接性を担保されているといえないだろうか。

映画における現在と直接性との非併存が告白の交差を要請させ、そうするのでなければ、物語の立ち現れを発生させることはできない。そして、文学においては、文字と時制との直接的な親和性により、すでに物語の発生は準備されており、告白の交差など少しも必要としないということができるのではないか。映画『ミステリーズ』と小説『忘却の河』を前にし、そんなことを思ったのである。

映画は身体の現在時制性によりリーマン的であり、文学は文字の非時制性によりロバチェフスキー的であるという幾何学夢譚。雑すぎる思考と叱責を受けそうな気もするのだが、二作品はこんな夢譚を許してくれるに違いない。

(注)直線という用語を漠然と用いたが、数学では概念としての直線は厳密に定義されている。

二点A、Bを通る直線とは、二点A、Bを結ぶ最短距離(経路)のことであり、距離は積分で定義される。
空間が歪んでいる場合、二点A、Bを結ぶ最短距離も歪んでいて、わたしたちが思い描く直線ではない。

「最短距離」「最短時間の経路」と考えると理解しやすいかもしれない。
たとえば重力や磁場の発生で空間に歪みが生じている宇宙空間で、AからBへの移動に要する最短時間の経路は(わたしたちが通常思い描)真っ直ぐであるとは限らず、(わたしたちが通常思い描く)曲線となることがある。この最短時間の経路のことを二点A、Bを通る直線という。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

ラウル・ルイス『ミステリーズ 運命のリスボン 』予告編


この記事が参加している募集

サポートしていただき、嬉しいかぎりです。 これからもよろしくお願いいたします。