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【映画評】 黃亞歷(ホアン・ヤーリー)『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』日曜日式散歩者

映画を見た帰り、京都の中京区にある寺町通りの喫茶店に立ち寄る。

ホアン・ヤーリー『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』(2015)の街並みは、古さの中の前衛という意味で、京都の寺町通りと繋がるものがあるように思う。南北に長い寺町通りの中で、とりわけ二条から丸太町に上ル区域。そこには、老舗の紙屋、茶葉の店、かつてはモダンそのものだった洋菓子店のある街並み。もしかすると、『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』の詩人たちもこの通りを歩いたかもしれない……そんな確証なんて少しもないのだが……と想像したくもなる、風情ある街並みである。

iPadに向かい、思いつくまま、映画の印象を書き綴ってみた。


日本のシュルレアリスム受容につては古くから優れた論考が多くある。だから、ここには書かないことにする。


蓄音機に、コクトーが自作「子さらい」を朗読したレコードがかけられる。コクトーの声を聴きながら、カメラの眼は心地よさそうに台南の隘路をさまよう。まるで日曜日の散歩者のよう。
建物の窓からこちらを見つめるボードレール、プルースト、ベルクソン…。
これから、コラージュ・引用の織物が始まる。

ボードレール
ボードレール

■映画内にヘンリー・カウエルの打楽器アンサンブル「OSTINATO PIANISSIMOオスティナート・ピアニッシモ」(1934)が流れる。オスティナートはイタリア語で「がんこな、執拗な、長く持続する」という意味。音楽的には、短い音形を繰り返し反復することをいう。なるほど、「執拗な、長く持続する」という意味の派生なのだろう。


オスティナートという反復音節形式は、停止ではなくざわめきの静謐さと突然の運動、そして他者への転位であるような感じがする。そこには、確かに「存した」という痕跡が見出される。


と思いながらも、「OSTINATO PIANISSIMO」の音形と少し違うような気もする。いや、音形だけではない。楽器の使い方も違うようにも思う。
映画内ではタムタムが聞こえたのだが、わたしの持っているMainstream版レコードではタムタムではなくゴングの音だった。
もちろん、打楽器アンサンブルは楽器を違えて演奏することもあるから、タムタムとゴングの違いは問題ではないかもしれない。だが、やはり違うような気がする。


もしや、ジョン・ケージ+ロー・ハリソン「DOUBLE MUSIC」(1941)ではないだろうか。同じレコードに収録されている曲だ。


「DOUBLE MUSIC」はオスティナートの変形楽曲。
タムタムのゴーンという音が分節作用を誘引し、反復音節はA→A’→A’’→…→へと転位しながら、予期せぬ増殖と消滅による反復。まさしく、これは「わすれられた台湾詩人たち」ではないか。
ホアン・ヤーリー監督は、この曲を是非とも入れたかったに違いない。


帰宅後、レコードで確認。確信とまではいかないけれど、「DOUBLE MUSIC」のように思う。

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Mainstream版レコードジャケット


映画内にシェーンベルク(1874〜1951)かウェーベルン(1883〜1945)のような楽曲。
ウェーベルンはセリーの技法で知られた作曲家なのだが、セリーは同じ音形の反復を嫌う。だが、オスティナートは同一音形の反復。対立項の並置で、なんだか面白いなあ。


3個の骰子を振る3つのショット。
最初の骰子は映画のシュルレアリスム宣言。
後の2つは時間の分節化。


マッチを擦る4種のショット。
3種(蝋燭、パイプ、竃)は理解できたのだが、残り1種(煙草)の意味はわからなかった。


机上の蝋燭に灯をともすマッチ。これは試作の宣言でもある。
パイプに火をつけるマッチ。パイプは主人公たちと交流のあった詩人・西脇順三郎の愛用であり、師の象徴でもある。
竃の薪に火をつけるマッチ。廃刊となった同人雑誌『風車』の廃刊を焚書にする竃。これは消滅であり、時代の終焉である。


オブジェの再現映像に、マン・レイ(1890〜1976)、そしてシュールレアリストたちに多大な影響を与えたロートレアモン(1846〜1870)のイメージが頻出しているような気がして、もうそのことだけでこの映画を見てよかったと思う。

マン・レイ+ロートレアモン
マン・レイによるロートレアモンの世界「解剖台上のミシンとこうもり傘の不意の出会いのように美しい」


前半の、テクスト、資料映像、絵画、再現映像によるおびただしい引用。それは時間を縦糸にした織物のようであり、時間の意識的な進行と遅延が彼らの思考世界を立体化している。
この時間の使い方は素晴らしく、映画を見ているに過ぎないわたしは、時間の糸に織り込まれていくのを感じた。


再現映像。
林永修の妻を除き、顔は映らない。首から下の映像。
人称の固有性の表れとしての「顔」を〝見せる/見せない〟ということ。再現映像は物語の再編(représentation)ではないし、ドキュメンタリーとフィクションの境界でもない。ましてや、その対立でもない。


本作品における再現映像はそのカテゴリーの無意味であり、かつて彼らの身体が在ったという、「残酷さ」としての映像であるのかのようだ。


あるいは、
フィクショナルなドキュメンタリー。
そのことがよくわかるのが、映画の後半である。


後半、慶應大学に留学していた林永修が、授業が早く終わったから明治神宮に行くというシーン。
そこには、コラージュ化されたドキュメントが個人へと不意に舞い降りることによる物語の発生がある。
それは、見事としか言いようのない〈ドキュメント→個人〉という時間軸装置を作り出した監督の才能であり、前半でシュルレアリスムとしてあったコラージュ・引用は、このショットから個人の物語に侵入し始める。


そのことを林永修にひきつけて観察すれば、林が明治神宮を見学した後、(おそらくは浅草の)繁華街の資料映像が引用され、さらに、コクトーの横浜到着を報じた新聞記事を切り抜く再現映像が挿入される。
そして、コクトーが日本滞在を終え離日することを知った林は、横浜埠頭へ見送りに行く。


多くの人だかりの中、林はコクトーに近づく。何を間違ってか、コクトーは林に手を差しのべる。
林は「bon voyage」と言い、コクトーは「merci」と答える。


コクトーが手に抱えていた本のなかに、「江間章子の『春への招待』があったのをちらりと見た」、と映画は告げる。
そして、林の日本女性との結婚、台南への帰郷。林の死を知らせる新聞広告。
個人へと舞い降りたコラージュ的物語は、やがて、歴史という「大きな物語」にのみ込まれていくことになる。


本作品に限らず、台湾を主題としたドキュメンタリー(先に述べたように、本作品はドキュメンタリーの枠にとどまらない)を見ると、いつも酒井充子『台湾アイデンティティー』(2013)を思い出す。
それは、「彼らの人生が写し鏡となって、台湾を顧みようとしてこなかった戦後の日本の姿が浮かび上がってくる」、ということ。
「るるぶ」片手にグルメと観光というのも楽しいけれど、これだけの台湾では悲しい。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

ホアン・ヤーリー『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人…』予告編

文中で述べた打楽器による二つの作品。
ヘンリー・カウエル『OSTINATO PIANISSIMO』
ジョン・ケージ+ロー・ハリソン『DOUBLE MUSIC』
YouTubeで視聴できます。とりあえずリンクをはっておきますが、楽器編成により演奏は大きく違うため、わたしがレコードで視聴した演奏とは異なります。
映画内の演奏とも印象が違います。


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