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【映画評】 ロベール・ブレッソン『湖のランスロ』

ロベール・ブレッソン『湖のランスロ』(原題)Lancelot du Lac(1974)

ブレッソン曰く
「ランスロとグニエーヴルは、いわば媚薬なしのトリスタンとイズー」

ブレッソンが聖杯探しの失敗という時代劇を制作するとは意外な気もするのだが、ランスロの特異な内面の冒険に現代的解釈を施した完全なブレッソン映画である。職業俳優でなく優秀な騎士を使ったという。ブレッソンにとり、作品主題はブレッソン自身が表現するための口実に過ぎなく、そこから作り出されるヴィジョンが重要なのである。

物語は必ずしも語りを必要としない。ただ呈示するだけで物語の充溢はある。ブレッソン『湖のランスロ』を見るとそのことがよく分かる。ブレッソンの言うモデルはそのためにあることも。

つまり、『湖のランスロ』ほど物語の呈示とモデルが簡潔に結びついたブレッソン作品をわたしは知らない。ブレッソンの、物語としての過剰な語りの忌避、そして演技というのではないモデルという呈示。とりわけ本作にはそのことを強く感じさるものがある。それは何故か。おそらく、騎士たちが身に纏った武具、鎧兜に包まれた不自由な身体の呈示がそのことを強く思わせたのではないか。そして、王妃グニエーヴルにおいては武具ではなく裸体の背後。『白夜』(1971)の、自己の身体を鏡に写すマルトを思わせる背後としての裸体。『湖のランスロ』においては召使たちに傅かれた水槽の場。背中を流してもらう王妃の立ち姿。肩から臀部に至る曲線がフレームに顕になるのだが、そこにあるのは王妃の背後の姿だ。一見何も語らないかのようなのだが、王妃の手には手鏡があり、そこに王妃の顔が僅かに映し出され、フレーム奥を向きながらも彼女の背後に位置するわたしたち観客に自己の身体を呈示しているかのようにも思えた。これは研ぎ澄まされ黙した語りであると同時に、手鏡を配置することによる、モデル(=王妃)の絵画性を感じさせるフレーミングである。これぞモデルであると思った。このことと関連して、ブレッソンの興味深いインタビューがある。

質問者「『湖のランスロ』は、絵画のように構成された作品でもあります。映像のなかのすべてが、映像を超えて出て行こうとしている、つまり別の何かを暗示することを目指して、指示される現実から映像を引き離そうとしているかのようです。あなたにとって、シネマトグラフと絵画との関係はどのようなものなのでしょうか?」
ブレッソン「絵を描きたいという欲求があると、すべてが絵の対象となり、手元にあるもので絵を描いてしまうものです。カメラやテープレコーダーのような機械を自由にできることは途方もない幸運です。ただし絵を作るようにやろうとしてはいけません。」

(『彼自身によるロベール・ブレッソン1943-1983』法政大学出版局、角井誠訳 p.314)

本書の別のインタビューでは「この映画には時間も場所もありません。(……)甲冑が現代と異なる時代の衣装に属するかもしれないことは一瞬たりとも頭をよぎりませんでした、それは単に鉄でできた衣装であり、物音、音楽、リズムなのです。(……)物音は生であり、その具体的な証拠なのです」と述べている。《物音》については次の発言が興味深い。「物音……そして沈黙……は音楽とかさねばなりません。幾度となく言ってきたように、「幻のオーケストラはいらない」のです。物音と沈黙は香りや色彩と同じように、記憶と思い出のなかを漂います。私の映画は、物音と沈黙の小片の貼り合わせでできているのです」(同書p.354)。

「幻のオーケストラ」というブレッソンの指摘。彼の映画に劇伴がないのはよく知られている。音楽は物語に寄与しないばかりか、「幻」であるとまで述べている。音楽ではなく、物音や沈黙こそがモデルとともにあり、物語にささやか意味を付与するのだ。だからこそ、騎士たちが纏う武具の音による身体性と、王妃の裸体の背中による身体性が呼応するのだ。『湖のランスロ』はシネマトグラフが「映像を用いたなにも表象しない芸術」(同書p.322)であることを簡潔に示した映画なのである。

最近、ブレッソンを想起させるドキュメンタリー映画を見た。それは
鈴木仁篤 、ロサーナ・トレス『Terra』(2018)である。

鈴木仁篤 、ロサーナ・トレス『Terra』

ポルトガル・アレンテージョ地方の炭焼きのドキュメンタリー映画。ブレッソンのように手や顔のクルーズアップを撮ることはないのだが、中庸の距離からの固定カメラによる長回しで対象を捉えるつましいショット。音楽はなく、作業の音のみによる、人間の手仕事を純粋に捉えようとする姿勢を見ることができた。ここには、音が物語に介入することによる語ることの性急さを回避する作者の誠実さがあった。『Terra』には、ブレッソンの意味とは異なるジャン=クロード・ルソーをも想起させた。映像の〈元素〉という視点である。それについては、稿を改めて書きたい。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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