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【映画評】 シャンタル・アケルマン『No Home Movie』 母ナタリー、ジャンヌ・ディエルマン

シャンタル・アケルマン『No Home Movie』(2015)

パソコン上のスカイプ映像にアケルマン監督と彼女の母。監督が滞在しているオクラホマ、ニューヨークと、母のいるベルギーとの通信映像である。「なぜ撮影するの」母は問う。「近さを表現したいから」とアケルマン。ベルギーとアメリカ。遠く離れていても、娘のことが心配でならない母を想い、「近くにいる」とアケルマンは言いたかったのだろうか。

アケルマンとアウシュヴィッツの生き残りである母ナタリーとの会話に焦点を当て、カメラをまわした作品である。
だが、映画は、砂漠と斜面を背景に、強風に耐え忍ぶかのような一本の樹木の映像ではじまる。強風に打たれ、それでも生きようとする強靭さを暗示しているかのような一本の樹木。そして、マイクの風防マスクが機能しないほどの強風。長回しによる固定カメラがその情景を捉える。遠くに斜面を数台の車が登るのがかすかにだが確認できる。砂漠の映像は、カーテンショットのように数度呈示されるのだが、この砂漠がどこなのかは示されない。

自己と母との会話を描いたドキュメンタリーを砂漠の映像で始めるアケルマン。それは映画人としての自己表出と、娘を想うベルギーの母と自己との埋めることのできない距離を、シンプルに示そうとしたのではないだろうか。その距離は諦念としてあるのだが、そこからアケルマンの静かな視線の中にある苦悩を読みとってもいいのかもしれない。

砂漠の場所なのだが、スカイプ上の会話で、アケルマンがオクラホマにいると述べたこと、そして、母がドキュメンタリー撮影について尋ねたことから、オクラホマ近郊で撮影した映像と推測できる。いや、場所はそれほど重要なことではない。荒涼とした砂漠と強風、その中の1本の樹木。そのイメージが重要なのだ。それがなにを意味しようと、はたまたさほどの意味など付与することなどなかろうと、映画を見る者の眼の強度と知覚を強要することで、アケルマンが母であるナタリーに向ける眼差しの共犯者となることを、映画の冒頭で要請しているように思えた。

母ナタリーとアケルマンの会話はスカイプに止まらない。ベルギーの母の家での会話では、ふたりの日常を含め、より深くで映し出される。部屋の構造、居間、廊下、寝室、台所、庭。いくつにも分節化される家の構造。その構造は移動を強要する。家とは移動する日常であり、とりわけ母として、社会コードで規定された女性表象としての家での移動という日常、それはアケルマンの主題系でもあるのだ。老齢となった母も緩慢だが移動する。アケルマンの1975年の長編劇映画『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地(以下「ジャンヌ・ディエルマン」と略)』を見た者なら、専業主婦であるジャンヌ・ディエルマンの移動を想起するだろう。

母ナタリーとアケルマンが台所のテーブルに座り、湯がいたジャガイモについて会話する下りは『ジャンヌ・ディエルマン』でのジャンヌのジャガイモの皮むきへの言及である。それだけではない。カメラの高低の位置が『ジャンヌ・ディエルマン』における廊下の扉から台所を捉えたカメラの位置と同じ高さである。それは、アケルマンの幼年期の眼の高さのようにも思える。台所の母を観察する幼年のアケルマンの眼である。

『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』

終盤、居間の椅子に眠る年老いた母を捉えた映像が呈示される。静かな眠り。ただ、部屋の外の生活音だけが聞こえるだけの長閑な情景。その生活音は、『ジャンヌ・ディエルマン』においてジャンヌが客を刺殺したあとの、食卓のテーブルに座りなすすべをなくした無言のジャンヌと部屋の外(フレーム外)から侵入する背景音と同質のように思え、わたしは震えた。そして突如としてハイトーンの映像で部屋から外部へと移動するカメラ。映像としてはほぼ破綻した高明度のイメージである。冒頭の砂漠のショットが映画の始まりならば、破綻した明度のショットは、映画の消滅なのではないだろうか。映画の始まりと消滅を示そうとしたアケルマン。
つづいて砂漠の短い映像が3ショットほどあり、部屋で身支度を整えるアケルマンの姿が映される。支度を整えたアケルマン。窓のカーテンを閉め、アケルマンが部屋を出ることで映画は終わる。
部屋から出ること。それは決別・別離(本作では母との別れ)であり、移動する身体の呈示である。「部屋」はアケルマンの主題系のひとつとしてここにもあり、次のステージへの移動を誘発する装置である。

アケルマンはなにゆえ母のドキュメンタリーを撮ったのか。それは、『ジャンヌ・ディエルマン』が母の変容としての作品だからである。ドキュメンタリーとしての母、物語の中で変容する母。自身を育ててくれた主婦としての女のシステマティックな反復行為の時間の流れ。それはさまざまな家事をこなすための自動化された部屋の移動や買物のための外出という移動。やがて老齢となった母の不自由な移動。それは、『ジャンヌ・ディエルマン』終盤におけるジャンヌの移動不能となる事件と、どこかで通底しているのだ。

本作はアケルマンの母親が亡くなる数ヶ月前、監督と母ナタリーとの会話に焦点を当てカメラをまわした作品である。

母親は撮影終了直後の2014年4月、86歳で逝去。「こうなるとわかっていたら、あえてやらなかった」とアケルマンは語ったという。
その翌年の2015年10月5日、アケルマンはパリで死去。
ル・モンド紙は、自殺と報じた。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

シャンタル・アケルマン『No Home Movie』予告編


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