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【演劇評】 ドイツのパフォーマンス集団 She She Pop『春の祭典 She She Popとその母親たちによる』 〈儀式〉により母と子の相克は救済されるのか

まずはパフォーマンス集団〈She She Pop〉を外観しておこう。

1990年代にギーセン大学応用演劇科専攻の卒業生によって結成されたドイツのパフォーマンス集団。
演出家、脚本家、俳優といった役割をあえておかず、創作は常にメンバー共同で行うスタイルをとる。メンバーのほとんどが女性で、メンバー相互のキャッチボールによる「動」としての集団創作というコレクティブワークを主体としている。

そこにあるのは、一人称で語ることの限界・不可能性から脱却した、複数で語ることのセクシーさと面白さが内蔵したクリエイティブな視線である。
一人称の限界といっても、自己を語らないということではない。複数者による相互往還で、一人称で語ることの限界を超え、社会システムの再創造を生み出す試みである。また、固定された集団に閉じることなく、メンバー以外からもテクストの提供を受けるというオープン圏をも内包している。
メンバー相互のキャッチボールというヒエラルキーのない制作方法。これは、1984年に京都市立芸術大学の学生を中心に結成されたマルチメディア・パフォーマンス集団《ダムタイプDumb Type》との共通性が見出され、日本のパフォーマンスシーンにおいても興味深いだろう。


『春の祭典 She She Popとその母親たちによる』について

個人の記憶、それはいうまでもないことだが、極めてパーソナルなもので、他者の介入を容易には許さない。たとえ何らかの方法で個人の記憶が外部へと放出され、あたかも他者へと届いたかに見えたとしても、自己と他者との間に、真の共有を見ることの難しさを、わたしたちは経験的に知っている。
だが、その記憶が、たとえば「戦争」や「3.11」のような、出自においてすでに社会化(=集団的記憶化)されたものであったならば、個人という閉ざされた場合であっても、他者への開口路を十分には呈示できないとしても、すでに同一の時間を共有したということで、暗黙の了解が成り立つことも、わたしたちは経験している。 

She She Popの演劇は、複数による「個人(=または個人の身体)の歴史」によるドラマツルギーを特徴とする。そして、彼女らのドラマツルギーを成立させる前提となるのは、経験の共有である。

たとえば『シュプラーデン(引き出し)Schubladen』(KYOTO EXPERIMENT 2013)での共有は、「2つのドイツ(西ドイツ、東ドイツ)の統一」であった。そこでは西と東の視点が反映され、相互の問いかけや摩擦、さらには制作過程そのものを資料として呈示することで、彼女らが置かれている社会を歴史化するものであった。この場合の歴史化とは、過去の事象と現在とを単に接続するということではなく、過去を「(実際にあった通りに)認識するのではなく、危機の瞬間にひらめくような想起を捉える」(ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念』)ことにより、過去というテクストからの解放を図ることでもあった。

彼女らのテクストとは、個々の〝シュプラーデン(引き出し)〟と名づけた記憶であり、その意味で、自伝的要素が深く反映するものであった。つまり、個々のシュプラーデンからの集合的解放を目指すのが『シュプラーデン(引き出し)』におけるShe She Popである。

She She Pop『シュプラーデン』京都芸術センター
(写真:京都芸術センター)

『春の祭典 She She Popとその母親たちによる』(KYOTO EXPERIMENT 2014)は、前作の『シュプラーデン(引き出し)』以上に自伝的要素の強い、母と子を巡る物語である。

母・子という、他者の理解を超えたところにある関係。それは他者の介入が許されない堅く閉ざされた領域である。だが、母・子という閉じた領域には、見えにくいけれど介入するものがある。それは、介入であることすら気づかぬ故の暴力的でもある制度としてある。
この場合の介入するものとは、「国家」、そして「家族制度」という母は子のための〈犠牲〉を引き受け、子は母の思惑による〈犠牲〉を被るという、非可視化された社会制度である。

この介入こそが、複数の演者たちの前提となる「共有」である。この共有により、個々の自伝的事象を、普遍的なものに繋げることができるのである。
だが、これだけなら、主題が「東西ドイツ」から「母と子」に変わっただけで、『シュプラーデン(引き出し)』とさほどの違いはない。本作品の特徴は、『春の祭典』(ストラヴィンスキー「La Sacre du Printemps」)という〈儀式〉を呈示することで、見え難い社会制度を可視化しようとしたことである。

She She Pop『春の祭典』京都芸術センター
(写真=京都芸術センター)

She She Popが本公演で試みようとしたのは、見え難い制度への一義的な介入では可視化の曖昧さをぬぐいきれず、可視化の強度を高めるために、観客という外部の視線(演劇システムは、覗き見趣味的視線という制度を前提としている)の介入にとどまらない母と子の関係の儀式化(儀式も当事者以外の外部の視線・観察者を必要とする制度である)を試みたことである。儀式化(=犠牲の可視化)することで、非可視化された制度から、母と子を救済しようというのである。

だが、両者の関係は「春の祭典」による〈犠牲〉の儀式化で、本当に救済されたのだろうか。
そこにはShe She Popのもつ知性、つまり制御された暴露が見え隠れし、わたしたち観客の覗き見を抑制するものがあった。そこから立ち現れるのは、〝抑制〟というコードが露になった新たな制度であり、She She Popそのものが、見ることを許されたものだけを見る、という社会と思えた。このことはShe She Popの試みの限界というよりも、儀式は、〝抑制〟というというある種の知性なのではなく、儀式の原始性である〈闇=病み〉から逃れ得ないからではないかとも思えた。〝抑制〟には〈闇=病み〉がない。そんな意味で、本公演は、She She Popの意図が必ずしも十全であるとは思えなかった。
とはいうものの、She She Popのパフォーマンスは刺激的で、目眩く展開される事態に、わたしはたえず動揺し続けたことも、ここに記しておきたい。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

She She Pop『春の祭典 She She Popとその母親たちによる』(紹介動画=KYOTO EXPERIMENT)


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