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【映画評】 アレクサンダー・クルーゲ『愛国女性』 シャベルを手に、歴史教師ガービは正しい「ドイツ史」を掘り起こす旅に出る。

アレクサンダー・クルーゲ『愛国女性』(1979)


映画『ドイツの秋』(1978)に登場した歴史教師のガービは、既成のドイツ史の教材に疑問を抱き、シャベルを手に正しい「ドイツ史」を掘り起こす旅に出る。それが、アレクサンダー・クルーゲ『愛国女性』である。
戦争映画やニュース映像、絵画、コミックなどのコラージュが戦後ドイツを亡霊のごとく浮遊させる。


『ドイツの秋』は、ドイツ赤軍派(RAF)による1977年のダイムラー・ベンツ社長シュライヤーの誘拐、殺害を契機に製作されたオムニバス映画。
赤軍派テロと社会不安の渦中、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手、アレクサンダー・クルーゲの呼びかけで、9名の監督が各エピソードを通じてドイツの思想構造を問い直す。
赤軍派の一連の事件や社会を伝えるニュースフィルム、それにさまざまな登場人物による議論、戦前の社会主義運動を語る映像を交え構成されたフィクションとドキュメンタリーを横断した作品。


赤軍派テロ事件をメディア的には「秋のドイツ」と呼んでいるが、この呼称は、映画『ドイツの秋』に由来する。
ゲルハルト・リヒター(1932〜)は1989年、この事件を題材に15点の油彩で構成された連作「1977年10月18日」を制作している。タイトル「1977年10月18日」は、シュトゥットガルト刑務所シャタムハイムにおいてドイツ赤軍の3人の活動家が不審な死を遂げた日付である。この刑務所内での不審な死は、現代「ドイツ史」の不審に満ちた謎でもある。闇としての国家が浮かび上がる死とも言える。
2022年、東京国立近代美術館で大規模なゲルハルト・リヒター展が開催されたが、「1977年10月18日」の展示はなかった。

画集「18. Oktober. 1977」より

以下のURLで「18. Oktober. 1977」全作品を見ることができる。
https://gerhard-richter.com/en/exhibitions/gerhard-richter-18-oktober-1977-367


『ドイツの秋』におけるガービとは、クルーゲ監督による第2部、第10部に出演する歴史教師ガービ・タイヒェルトのことである。
第2部は、第二次世界大戦の英雄であり、ナチ政権に叛逆し服毒自殺を図ったロンメル将軍の、国葬をめぐるエピソードが回想される。
第10部で彼女は、ドイツ国歌の歌詞となった詩を歴史書で読む。1920年代の映像とカール・リープクネヒトローザ=ルクセンブルクを称える革命歌が流れる。
カーリ・リープクネヒト(1871〜1919) ドイツの政治家で共産主義者。
ローザ=ルクセンブルク(1871〜1919)ドイツとポーランドで社会主義を指導。国家支配の死滅を目指したが、逮捕、虐殺された。


『愛国女性』にはドイツ兵の死は描かれているが、アウシュビッツの死は描かれていない。だが、聞き覚えのある音楽が挿入されている。それは、アウシュビッツを描いたアラン・レネ『夜と霧』(1955)の音楽である。『愛国女性』冒頭に、トマス・アイスラーによる『夜と霧』冒頭の音楽がさらりと引用されている。


本作はファクターが多く、いわゆる難解な作品。
単純化は危険だが、仮に〈ベンヤミン→アドルノ→ブレヒト〉と図式化できるとすれば、ベンヤミンの歴史の概念上に、断片化したアドルノ的なイメージをコラージュすると、ブレヒト的異化を発生するのではないか。
ベンヤミンは引用で書物を編もうとして果たせなかったが、クルーゲはそのことを映像で呈示したと言えないだろうか。
そして、本作を再見することでこの図式に修正を加えなければならない。ただ、再上映を引き受ける映画館はあるのだろうか。あるとすればミニシアター。大資本のシアターでは絶対に上映しない。ミニシアターの消滅は、このような映画を見る機会の消滅でもある。


時間の推移の過程で、歴史はバラバラに瓦解し遺物となる。クルーゲは、そこに「解体」「収集」「配置」というベンヤミン的介入操作をおこなう。それをコラージュと名づけてもいいだろう。そのことで、歴史に寓話的イメージを布置させるのである。


クルーゲにより呈示されるさまざまな死の形。そこには露出される死と、隠される死があり、〈膝〉の運動とは、露出と隠すという屈伸運動のことではないのかと思えた。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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