【映画評】 エドワード・ヤン(楊德昌)『ヤンヤン 夏の想い出』『恐怖分子』『指望』。「白」と「赤」
(冒頭の写真『ヤンヤン 夏の想い出』bunkamuraより)
エドワード・ヤン(楊德昌)『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)(英題)YiYi a one and a two
英題のoneとは、とりあえずはヤンヤンの祖母、twoとはそれに続く世代のカップル、そしてやがてカップルとなるであろう次の世代のこととしておこう。
8歳の少年ヤンヤンの母親の弟の結婚式を境に、twoたちの歯車が狂い始める。歯車を支える構造は、ここでも本作品の14年前に撮られた『恐怖分子』(1986)同様、不定形ともいえる危うい現代社会の表象として呈示される。それを、存在することの自明性を体現できうるもののない、情動の触発のみが存在する中心なき構造と名づければいいだろうか。中心なき構造の中で、人はどこに向かえばいいのか。
だが、中心なき構造といっても、『ヤンヤン 夏の想い出』には一つの身体がある。その身体とは高齢の祖母である。台湾という地勢的多様体の中の祖母という身体。その身体が中心なき社会構造を救済へと向かわせるかもしれない。
oneである祖母の身体。祖母は病に倒れ、家族は意識のない祖母に語りかける。語りかけるときは告解のごとく誰もが独り。それもoneである。oneは独りであり、孤独であり、祖母に語りかけることで過去時制へと向かう者としてのoneでもある。oneであるのは祖母ばかりではない。たとえtwoであっても、人はone(死ぬときもoneではないか)として在る。
twoは反復される。その反復は、oneとなる不安を抱きながらの反復である。ヤンヤンの父親であるNJの苦い過去を想う身体は、娘であるティンティンの未来を見つめる身体により反復される。はじめてのホテルでの不甲斐ない男たち。来るのをずっと待っていた女たち。彼や彼女はoneとtwoの間で激しく振動し、はたして身体は触れあうのだろうか。
(写真=『ヤンヤン 夏の想い出』bunkamuraより)
そして、もうひとりのone。それは少年ヤンヤン。
ヤンヤンは同級の少女が気になる。学校では「囲われ者」と陰口を叩かれている少女だ。あるとき、ヤンヤンは学校のプールの脱衣棚にひと組の脱がれた衣服を見つける。プールサイドにはひとりの少女。あの「囲われ者」と蔑視されている少女だ。純白の水着の少女。プールに飛び込む身体としての少女。ヤンヤンの淡い恋心の芽生えとなる少女。ヤンヤンが水着姿の少女の肢体を目にすることで、これまで見たことのない新しい身体の萌芽を見る美しいショットである。
学校の視聴覚室での理科の授業。ヤンヤンは視聴覚のビデオを見ている。そこに少女が遅れて入って来る。少女のスカートの裾が扉のノブに引っかかり、裾は上に捲れ上がる。薄闇の中に浮かび上がる少女の白い下着。その事態を見つめるヤンヤン。そして少女は自分の席を探そうと視線をさまよわせるが、少年と少女の視線は交差することはない。ヤンヤンは見つめる眼差しとしてあり、少女はさまよう身体としてある。少女の視線の背後のスクリーンには大気中の雲が映し出されている。雲は不気味に蠢き、その映像を背景に少女は佇んでいる。胎動のような大気の動きを背景とした少女の、幻想的で、そして消滅の後の生成でもあるかのようなショット。それは間もなく死を迎えるヤンヤンの祖母が、ヤンヤンの姉であるティンティンの髪を撫でる午後2時30分のショットと接続される美しいショットでもある。
祖母というoneが消滅し、twoが再生される。それと同時に、oneはまだ見ぬtwoを求める。a one and a two。ひとつのoneとひと組のtwoは反復を繰りかえしながら分かち難く結びつき、それが家族という不安定な構造なのであると、『ヤンヤン 夏の想い出』は語っている。
エドワード・ヤンにとり、本作品は最後の作品である。彼の作品は、「白」と「赤」のドラマツルギーであると、改めて思う作品でもある。白と赤の強度は作品により異なるのだが、その現れが、作品を特徴づける重要な要素……それは構成原子と称しても過言ではない……となっている。
『ヤンヤン 夏の想い出』の赤は、ホテルの柱や装飾を舞台とする結婚式のハレ、そして、その後の諍いをひきおこすケの、祝祭的な赤であった。それは、物語の発生装置としての赤と言えるだろう。
白は先に述べた通り、ヤンヤンの、異性への性の芽生え(少女の白い水着とスカートの中の白い下着)としての少女の表象としての白であり、物語の主題としての役割を果たしている。この白は、『恐怖分子』やオムニバス『光陰的故事』における『指望』(邦題:希望)の白の変奏でもある。
(写真=『恐怖分子』)
では、『恐怖分子』の白はどのようにあるのだろうか。映画冒頭の白の提示は、勢い、わたしたち見る者に怪しげな空気のおとずれを予兆させる。
早朝の薄明かり。開け放たれた窓辺にひとりの男がおり、朝の空気が部屋に流れ込んでくる。その風に白いカーテンが揺れる。台北の朝のシーンなのだが、部屋に流れ込む風はどこか不穏な匂いを含んでいる。まだ映画は始まったばかりだというのに、風に揺らぐカーテンの白に、映画を見るわたしたちは犯罪の現場に遭遇したかのような錯覚に陥る。それは映画冒頭の、台北の夜の街中をサイレンを鳴らし疾走するパトカーを目にしたばかりではない。映画の始まりとは、薄明の白であると告げているからである。薄明の白とは闇を纏った白。夜明けのアパートの、矩形の一室で揺らぐ白いカーテン。台北の朝に、不気味に浮かび上がる白である。
そして赤の出現。それは映画終盤での思いもよらぬ結末を出現させ、フレームを超えて血の飛沫を浴びてしまったかのように、わたしたちはその事態を呆然と見つめることになる。
繰り返し述べよう。エドワード・ヤンは、「白」と「赤」の映画作家である。
『光陰的故事』(1982)は4人の新人若手監督による4話構成のオムニバス作品、タオ・ドゥツェン『小龍頭』、エドワード・ヤン『指望』、クー・イチェン『跳蛙』、チャン・イー『報上名来』である。
エドワード・ヤン『指望』の「白」と「赤」。それはともに淡い。
(写真=『指望』)
ヒロインである小学生の少女、高校生の姉、そして、下宿している男子大学生。
ある朝、目覚めると異変に気づく少女。下着と布団のシーツが赤く染まっている。いわゆる初潮である。シーツの中を覗き込み困惑する少女。そこに映されているのは彼女を包む白いシーツであり、初潮は暗示に止められ、赤は映されない。『恐怖分子』の赤は〈死〉の予兆としての〈生〉の鮮烈な血の飛沫なのだが、『指望』の赤は〈性〉そのものであり、シーツの「白」と対を成す「赤」である。
少女は密かに下宿人の男子大学生に想いを抱いている。「人を好きになるってどういうこと」、と姉に尋ねる彼女。人を好きになるとは、その人の側にいたいと思うこと、と理解した少女は、夕食を終え、勉強を教わろうと下宿人の部屋に行く。窓から室内を覗くとベッドに下宿人の姿があり、そしてその側には下着姿の姉がいるのだ。そのとき、二人は肉体関係にあると少女は知る。淡い恋心はここで途絶えることになる。
少女の恋はあえなく潰え、自宅前を無言で歩く。少女のワンピースの白が、夜の街路灯にうすく浮かび上がる印象的なラストシーンである。
エドワード・ヤンの「白」と「赤」は危うく、そして美しくも危険である。
彼の「白」と「赤」を継承できる監督はいるのだろうかと、ふと思う。
(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)
『ヤンヤンの夏休み』(2000)予告編
『恐怖分子』(1986)予告編
同監督の最大の話題作『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(1991)予告編
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