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【映画評】 ニコラス・ローグ『地球に落ちて来た男』〝落下〟から始まるいかがわしさ

1月10日とえいばデヴィッド・ボウイの命日。この日に本文をアップしようと思いながら、数日が経過してしまった。
遅ればせながら、ボウイの命日に、彼の主演した映画『地球に落ちて来た男』のレビューを捧げたい。

ニコラス・ローグ『地球に落ちて来た男』-2

デヴィッド・ボウイの風貌を見て宇宙人のようだと思ったことがある。
彼にはわたしたちの地球ではくくれないものがある。それは、ボウイがボウイという身体の唯一性で保障されるのではなく、ボウイを演じることで脱皮にも似た変容を遂げる変異体として在るということである。異星人のメイクをしてもボウイ自身であり、それはスキゾとしての常時変異のボウイなのであり、決して変異体としてのボウイ自身から逃れることはできない。ボウイにとり地球人であるとか異星人であるとか議論することは徒労にすぎず、彼は常時変異体としての宇宙人(=ユニバーサル)であると断言したほうが、すとんと落ちるように思える。
2016年1月10日のボウイの死も、そんな風に考えればなんら特別なことではなく、とりあえず〝死〟と名づけたに過ぎない。

ニコラス・ローグ『地球に落ちて来た男』(1976)
父親であるトーマス・ジェローム・ニュートン(デヴィッド・ボウイ)と妻と2人の子ども。
彼らは倹しく暮らす彼の星の異星人家族。彼の星では水が枯渇し砂漠化が進み、水のある星を探している。そして美しい姿の地球を発見する。父親であるトーマスは、妻子を彼の星に残し、単独で地球へととびたつことになった。

異星人だからといって宇宙船技術が進んでいるわけではない。地球に着陸したのでも漂着したのでもなく、トーマスは宇宙船もろとも地球に落ちてきたのである。トーマスのファミリーネームがニュートンなのだから万有引力の法則で落下するのは自明のことであり、あえてタイトルに「落ちて来た」とつけるまでもなく、主人公の名から相当に自明なのである。だが、宇宙船の落下をあからさまに見せつけられたわたしは、タイトルの自明さを、相当にいかがわしいと感じる。
さらに、水を求めて巨大企業を作り上げるも、メリー・ルー(キャンディ・クラーク)と恋に落ちてしまうことで、水と妻子はいったい何処へという、さらなるいかがわしさを増幅させる。というのも、恋に落ちる—英語でfall in loveというではないか—というのもニュートンならではの必然で、落下のイメージは彼のトラウマとでもいうべき恐怖として、地球上での共同経営者であるオリバーの、ビルからの落下としても反復される。
そして落下の反復がゆえに彼を本来の目的から逸脱へと導き、ついにはセックスとジンに溺れることになる。

ニコラス・ローグ『地球に落ちて来た男』-3

こうなったらなんでもありという様相で、トーマスの計画を妨害する彼の国の中枢機関の奸計にはまり、異星体治験という苦痛を受けるまでになるという安直ないかがわしさ。
彼は悪巧みから逃れようとするのだが、地球時間は加速度的に進み、彼だけが若さを保持し、時間の推移から取り残された浦島太郎的夢譚のような物語となる。

星に戻るにも宇宙船は彼とともに落下したがゆえなのか、家族の元へ戻るための帰還を計画するも戻ることはできない。彼を待っているのは酒浸りの自堕落な日々。赤いハット帽を深くかぶり、バーでジンに溺れる飲んだくれの人生へと落ちてしまった姿は、逆説的にもうこれ以上落ちることはなく、トーマスはボウイ自身となるといういかがわしさ。
これを落下から上昇、つまり「トーマス→ボウイ」への変換運動であると逆称揚してみたいのだが、それは本当の天上に逝ってしまったボウイが許さないかもしれない。だが、これほどまでにいかがわしさに満たされた映画をわたしは知らない。いかがわしさこそ『地球に落ちてきた男』の真髄なのであり、それを称揚せずしてなにを称揚できるだろうか。

わたしたちはこのいかがわしさをいかに処理すればいいのだろうか。
たとえいかがわしさの唾棄を装ったところで、新たないかがわしさが生みだされることをわたしたちは「経験」している。わたしたちはその教訓を読みとらなければならない。
「経験」とは何か。〝手続き論〟と、総理への道を見据える男と米国大統領への道を進もうとする日系女性との〝ラブロマンス〟にリメイクされた『シン・ゴジラ』。この絶望としか思えないリメイクのいかがわしさの「経験」、これは『地球に落ちてきた男』と決して同質ではない。絶望的ないかがわしさを創生しても世界は決して救済されることはないのだ。
だから、『地球に落ちてきた男』のいかがわしさをそれ自身として反復(=再上映)すること、実はこの行為こそ、世界の悪しきいかがわしさへと矢を向ける現代の武器なのではないのか。政治も経済もメディアもいかがわしさに満ち溢れ、そのいかがわしさに対峙するのは、『地球に落ちてきた男』のいかがわしさを措いてないだろう。だからこそ、『地球に落ちてきた男』の反復(=再上映)には意味があるのだ。

『地球に落ちてきた男』は日本のテレビSF『ウルトラQ』と双璧をなす純粋いかがわしさの映画である、と唐突かもしれないが思う。
『ウルトラQ』も反復(=再放映)にふさわしい作品ではないのか。このいかがわしさを反復せずになにを反復しようというのか。

(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)

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