流れに身を任せて生きる

note連続投稿30日目の節目に取り上げるテーマとしては、ある意味ふさわしいのではないだろうか。
タイトルの「流れに身を任せて生きる」というのは、僕の人生における「哲学」ほどご大層なものではないけれど、根幹を成している考え方の一つです。

これまでの読書経験で、さまざまな古典文学に触れる中で、仏教思想を学んだからかもしれません。
なんだか仏教思想や東洋思想で言われている、人生ってなるようになる、行き着くところに行き着く。
という考え方が僕にとってすごくしっくりくるんです。

これは、今までの人生を振り返ってもそうだったからでもある。

昔こそ、20代までは、「夢」や「目標」といったものを大切にしていて、理想を叶えるために人生はあるし、それが叶わない人生なんて意味がない。

くらいに思っていましたし、実際にそう発言していました。

でも、その一方で、それを言っている自分に違和感をすごく感じていたんですよね。
だって、僕はそれまでの人生で一度も夢を叶えたり、目標を満足に達成したことがなかったから。
これは何もネガティブな意味で言っているわけではなくて。
正しく言うと……


「別に夢や目標が叶わなくても問題なく、それなりに楽しく生きている」という事実があったから。

つまり、ポジティブな意味。ポジティブな違和感を感じていた。

やるべきことをやり、自分を満足させられる楽しいことをする。
それだけで十分じゃないか、と。

その先々にある変化を楽しむ方が、実は特定の夢や目標に執着するよりもずっと人生を面白くしてくれるのではないか、とどこかで薄々勘づいていたんだと思います。

それが30歳手前くらいから読書をよくするようになって、このような考え方が日本を始めアジア圏では思想として言語化されているのを知り、いつしか自分もそこにアジャストしていくようになりました。

もちろん、夢や目標を追いかける人も多いでしょうし、僕はそれができる人、そして実際に叶えた人は尊敬します。
僕にはできないことだから。

でも、僕個人はその生き方には今のところ、フィットしないなと思っています。
だから、フィットしないからといって、別段、気を病む必要はないんじゃないかな。
夢や目標がなくても、自分も、自分を取り巻く状況も変化していくし、それでいいのでは。

案外、小学校とかで、

「夢を持て」

みたいな教育が蔓延していることも、夢を持てない人たちが疎外感を感じてしまう原因の一つかもしれない。

僕がもし、小学生たちに何かを教える機会があったら、「夢」「夢」と言うのはよそうかなとも思っています。

読んで頂き誠に有り難う御座います! 虐げられ、孤独に苦しむ皆様が少しでも救われればと思い、物語にその想いを込めております。よければ皆様の媒体でご紹介ください。