見出し画像

自由を認めることが「ゆたかさ」を育む土壌となる

お気に入りのコーヒーカップのなかにコーヒーをゆっくりと注ぐ。
立つ湯気のなかには深くローストされた豆の上質な香りが混じる。
拳ほどの大きさのカップに、こぼれそうになるまでたっぷりと注ぐ。
休日の朝、ゆったりと流れる時間のなかで、私はゆたかさを感じていた。

ゆたかさのイメージとして、カップに液体が満たされた状態は良い例えだと思う。
好きなものがいっぱい入っていれば、心は満ち足りてしあわせな気持ちになる。
どんな容器に何を入れるかを考えると「ゆたかさ」を評価しやすくなる。

まず、カップに例えた容器のイメージを説明しよう。
個人の持つ好みとか価値観が容器を形作っているとする。
これにより、何をどれだけ入れたいか、あるいは入れられるかが決まる。
コーヒーカップを持っているなら、そこに入れたいのは緑茶ではなくコーヒーだ。
また、カップのサイズは欲しい量をあらわしている。少なければ満足できないし、あふれてしまう量は入れられない。
このような容器の性質を受容力ということにする。

つぎに、カップのなかに入れるものだ。
こちらはモノがもつ価値の高さと量をあらわす。同じ量の一杯でも中身がちがえば満足感も変わる。コーヒーは、豆の産地、焙煎方法、そして誰が淹れたかなどでも味が変わる。これらの要素の全部が、コーヒーの持つ価値である。
このようなモノのもつ価値を、潜在的な価値をふくめて真価ということにする。

真価と受容力が調和した時にゆたかさは最大化する。

どんなに真価の高いものでも、受容力を持たない者には猫に小判状態となるし、受容力の期待が真価を上回ればゆたかさを感じられない。


ゆたかさ|個人の場合

満足の基準を100とするか10とするかは個人の決めることだ。
だとしたら、受容力を小さなカップにしておいた方が、当人は満ち足りて幸せになりやすい。まさに「足るを知る者は富む」の境地だ。だけど、それが難しい。
なぜなら私達が受容力を拡大せずにはいられないからだ。
ほっておいたら不足感がうまれてしまうようにできているのだ。
その原因は想像力によるものだ。想像力があるかぎり今よりも良い状態をイメージしてしまう。

想像力を刺激してくるものが身の回りにあふれていると気づいているだろうか?
あらゆる広告は「あなたは現状で満足なんですか?」とか「もっと良い生活ができますよ」と語ってくる。
SNSでは友達や知らない人が「あなたよりも良いものを持っているし素敵な体験をしている」と語ってくる。
今の生活に満足していたとしても、これらの情報に触れつづければ、ゆたかさの基準を上げずにはいられないだろう。
個人的なゆたかさを維持するためには、これらの悪影響をいかに減らすかが重要となる。

別の問題として、価値の奪い合いも懸念される。
多数の人間に同じ価値観を共有させることで影響力を増やす仕組みを広告やSNSは持っている。
同じ価値観を持つ人が増えれば、同じものをもとめて奪い合いになる可能性が高くなる。
他者との比較の中でゆたかさを求める構造になってしまっている。
相対的に受容力を決定してしまうのは、じつは自ら争いを招いているようなものだ。

争いを避けるためにも、絶対的なゆたかさの基準、つまり独自の価値観を持っておいたほうがよさそうだ。
少なくとも他者に影響されて、受容力が変わってしまうのは防げるだろう。

しかし、絶対的な基準をおいても受容力は拡大されるときがくる。
猫が小判の価値を理解してしまった場合である。

自分の受容力を超えたモノに触れて、その真価が理解できた時、大きな衝撃と感動を受けることがある。
今まで知らなかった世界との突然の出会いであり、価値観がアップデートされる。価値がわかればもっと欲しくなるだろう。
それに、新しい価値を知った快感は簡単にはぬぐいされない。慣れてくれば、新しいモノを求めてしまう。

いずれにしても、個人的に感じるゆたかさを同じレベルで維持し続けるのは難しい。


ゆたかさ|社会全体の場合

ゆたかさを量的に評価するために、経済成長率などでなんとか数字化しようとしたりしている。個人の受容力はあまり問題にならず、総和の方が問題である。
結局、受容力は人間に想像力がある限りほぼ無限なので、全体としても性質上不足感を感じやすいというのは同様だろう。
だから、モノの価値が変わらず量も増えなければ容易に争いが生じる。

争いはゆたかさを減少させる。

争いによって人間性は破壊され、築き上げてきた繁栄も振り出しに戻ってしまう可能性がある。
それは価値あるものが破壊され、ゆたかさが失われることと同義である。
そこで、いかに真価の高いモノをたくさん供給できるかが重要である。
価値観が同質化してしまっては、争いになりやすいから、価値観を分散させたうえで、それぞれに対して独自の真価を提供する必要がある。

そのためには価値あるものを生み出す人が欠かせない。
独自の真価を生み出す人は、ある意味では現状に満足しない人でもある。
社会を発展させるエネルギーを持つ人である。
自分のもつ独自の受容力に満足できるモノが世界に無いために、自身でつくりだしてしまう人だ。

こういう人達は特殊な価値観を持っているから、時に抑圧や排除の対象になる。
彼らを認められない社会こそ貧相であるように思う。
彼らの自由さを発揮させないで、リソースを奪うことこそ悪である。
そういう人にこそ資源を与えて、働いてもらえば、社会全体のゆたかさは増すのではないか。

ちょっと話が大きくなりすぎて手に負えない問題でありそうだから、社会としてのゆたかさについては偉い先生方にまかせるとして、ここでは個人的なゆたかさに話をもどして終わりにしたいと思う。


まとめ|ゆたかさを手に入れるには

どうすれば満足感のある状態を手にいれ、維持できるのか。個人が感じる「ゆたかさ」ならば、以下の方法がとれるだろう。

1.真価≧受容力のバランスを保つ

自分の受容ラインを明確に線引きする。価値観のアップデートは少しずつ。いきなり最上級のものにとびつくと簡単には満足できなくなる。

2.できるだけ他の人と違う価値観を持つ

競争を避けるためにも、他者と比べられないモノに価値をみつける。そうすれば受容力は安定し、不足感を感じにくくなる。
個人間で価値観を分散させるということは、それだけ多様性を認めることでもある。専門的な分野を深堀していくほうが個人的ゆたかさは感じやすいだろう。

3.独自の真価を生み出す人とつながろう

受容力の拡大はよほど精神修行を積んだ人でもない限り避けられないものだから、真価の高いモノを提供してくれる人の存在はやはり重要だ。
自分の知らない世界に招待してくれる人を探し、フォローしておこう。
もちろん、他者と比べる必要のない専門性の高い分野である方が良い。

ゆたかさ


スキ、フォロー、拡散、購入、サポート、コラボ あなたができる最大の方法で、ご支援ください。