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「ありがとう」を、言えるようになるまで

母と一緒に、『老害の人』というドラマを観た。原作は、内館牧子さんの小説だ。正直、僕は1話のはじめの数分でリタイアしてしまったのだけれど、母は最後まで楽しく(?)観ていたようでよかった。

あとから聞いたのだが、全体的に「考えさせられる」「苦しい」内容だったらしい。それは、ドラマとはいえ、じぶんごとにならざるをえない状況が、母にはあるからだと思う。

僕の父は、僕が平成8年の生まれであるので、もちろん昭和の時代を生きてきた人だ。けっして悪口を書きたいわけではないのだけれど、昔から家のことはほとんどなにもやらないし、社会に出てから仕事しかしてこなかった人なので、趣味のひとつももっていない。簡潔に彼のことを言い表すのなら、退屈で、社会や周囲からどう思われようともかまわないというような絵に描いたような“昭和の父親”そのものである。

父がこういう、人を顎でつかうような態度でいられるのは、家族を“給料”というかたちで養っているから、ということにほかならなかった。

だが、現在でも週に2〜3日ほど働いてはいるものの、パート勤めだった母もおなじぐらいだけいまも仕事をしているのでその理屈はもはや通らない気がする。むしろいままでもこれからも家事全般を担っているぶん、過去のことを度外視すれば、母のほうがでかい顔をしていても不思議ではない。

ここまで「老害」をきっかけに書いてはいるが、父のばあいはそもそも昔からそういう人間なのだ。というか、若い頃はおだやかだったが、老化が原因で厄介になるようなケースもあるのだろうか。だとしたら非常におそろしい。

父のことについては、僕や姉はずっと心配していたのだけれど、ここ数年でより深刻な問題となった。それは、姉はもちろん、僕もいずれ結婚をして家を出る。そうすると当たり前だが、ひとつ家のなかに、70歳ちかい父と60歳すぎの母のふたりが暮らしているという状況が生まれる。現在は僕たちが少なからず会話をしたり、なによりも孫(姉の子ども)がいるのでわりと平和に過ごせている。これから先、母ははたして耐えられるのか。

話はもどるが、先ほどの「仕事があるから」という理由は、どうにも僕には理解ができない。そういうことを振りかざす人間に僕が尋ねたいことは、「24時間365日、ずっと仕事をしているんですか?」ということだ。

それに、「仕事があるから」ということは、怪我や病気でもして仕事ができなくなったらその時点で「価値がない」ということになるのだがいいのだろうか。

現時点での僕の結論としては、けっきょく「これまでの生き方はそう簡単には変えられない」ということだった。

ドラマでも伊東四朗さんが演じる戸山福太郎という人物が、こんな印象的なセリフを放っている。

「歳とった人間はそんなに悪いか?そんなに邪魔なのか?」

べつに悪いというつもりはないのだけれど、共通するめんどうくさい点として、「人の意見に耳をかさない」というものがある。いままでこうやって生きてきたのだから、これまでも変わらずでいいだろう、という傾向がつよいのだと思う。

だから、過去の自慢話を聞くことが、他人にとってどういうものなのかを理解ができない。毎食の食事の準備をしてもらうことが、どれだけ大変でありがたいことなのかを感じ取れない。健康のために散歩でもしてきたら?という忠告を他人事のように聞き流すことが、数年後のじぶんのため、いや、病気になって入院にでもなったら家族のためでもあるが、そういう未来や周囲のことを気にかける力が衰退していく。

楽しく、みんなで笑い合いながら生きていこうよ、と言ってやれるほど僕たちと父との溝は浅くない。いなくなってから後悔しても遅いのはわかっている。

だけれども、父のことを書こうとすると、ついこういう憎まれ口になってしまうのが残念でならない。

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