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映画『朝が来る』〜自分は何者か〜

一生の宝となる映画体験をした。

河瀨直美監督作品『朝が来る』。

ゆらりと心地よい余韻に浸りながら、
書きたい、という猛烈な衝動に駆られている。

長文になるが、是非この映画について
知ってほしい。
感じてほしい。

①河瀨直美監督の映画創り


この作品に興味を持った理由は、河瀨直美監督の撮る画を観てみたいと切望したからである。

ちょうど約1年前、私は河瀨監督の講演会を聴く機会を得ていた。

真っ白なドレスを身に纏い、広大なステージに静かに佇む監督は、冗談でも大袈裟でもなく、光っていた。発光していた。

まるで天使のような、人間離れした、独特なオーラを持つ方だった。美しさに息を飲んだ。

紡ぐ言葉は優しく、
眼差しは力強く、
声は儚く柔らかく、染みこんでいく。

監督はご自身のドキュメンタリー作品『かたつもり』や『につつまれて』のシーンを時折紹介しながら、自分にとっての映画とは何かを、かみしめるように語っていく。

私は彼女の言葉をこぼさぬよう、夢中でメモを取った。
箇条書きになるが、特に胸を打たれた数節を是非ここで紹介したい。


【自分と映画について】

映画創りとは、
「自分は何者であるのか」
を問いながら、自分を抉っていく作業である。

映画監督である前に、
人としてより良く生きたい。
映画を創ることで、成長できる。

映画を撮りたいと思ったきっかけは、
高校で打ち込んでいたバスケだった。
楽しい時間を留めておくことができない悲しさに、涙が止まらなかった。

映画なら、大切な時間や空間を切り取り、
閉じ込めておくことができる。
観ればいつでも時を巻き戻せる。

映像は平面だが、リアリティがあれば、匂い立つような気配や感覚をも表現することができる。
特別にセンセーショナルでもない、誰にでも起こりうるドラマを、撮りたいと思った。


今撮りたいテーマは、「家族」

自分は養子として義父母に育てられた。
家族は、つくるものだと思っている。


【フィクションについて】

2021年東京オリンピック競技大会公式映画の総監督に就任した河瀨監督は、記録映画を撮る心構えとして、1964年五輪の監督だった市川崑氏の言葉を引用されていた。

「夢を現実に!嘘を真実に!
ほんものをフィクションに創りかえよう!」


それこそが、人間のイマジネーションを育てる。
夢がなかったら、未来への希望がなかったら、
人間は本能だけで生きる他の動物とちっとも変わらない。

自分の目に映った「ほんもの=事実」を、
「フィクション=映画」に創りかえる。
"製作"ではなく、"創作"をする。

自分の"記憶"を映画に"記録"することで、
誰かの"記憶"に訴えかけることができる。
ひとつの映画が、人と人を結びつけるのである。


久しぶりに走り書きのメモを読み返して、震えた。たった小一時間の講演で、紡がれた言葉に深く深く感銘を受けたことを思い出した。

念願の新作が、私にとって河瀨監督の長編映画との初めての出会いとなったわけだが、最初のショットから一発で心を掴まれた。
これが、あの天使のような人の瞳に映る景色なのかと、圧倒的な美しさに目眩がした。
次から詳しくその魅力を紐解いていこう。


②映画的物語が伝えるもの


映画『朝が来る』の大きなテーマは、
「特別養子縁組」である。

「普通養子縁組」との違いは、裁判によって子どもと産みの親との法律上の親子関係を完全に解消し、養親と養子を実の親子として認める点だそうだ。

私はこれまで、この制度を深く知る機会がなかった。
なんとなく、適齢期になれば結婚し、子供を産み、育てるものなのだというイメージがあり、その道以外や、その道の先を想像したことがなかった。
欧米と比較すると、家や血筋を重視してきた日本では、養子縁組はいまだに定着しないもののようだ。

観客は、子どもが欲しい佐都子と清和夫妻と共に、特別養子縁組を斡旋するNPO団体「ベビーバトン」の説明会を訪れることによって、ゼロからこの仕組みを知っていくこととなる。

現在妊娠しているが、子どもを産んでも育てられない母親と、子どもを望むのに授からない夫婦を引き合わせる。マッチングが成立するとまもなく裁判が進められて親権が移され、産まれたらすぐに養親に引き取られる、という仕組みだ。

浅田美代子さん演じるNPO代表の浅見の言葉を聞きながら、「家族とは本来血が繋がっているもの」という固定概念をなんとか振り払おうとする。
それでも。

子を預かる夫婦は、人の子と本当に家族になれるのか。
実親は本当に子どもを育てられないのか。いざ我が子を抱いた時、手放すことはできるのか。

扱うのはひとつの命だ。ひとりの人生だ。
簡単に答えは出せない。正解が分からない。
自分ならどうするだろう、と考えこんでしまう。

そこへ、特別養子縁組によって結ばれた"ほんもの"の家族が登場し、体験談を話してくれる。
彼らは役者ではない。
血の繋がりなんて関係なかったと、飾りのない自分の言葉で涙ながらに語る。
少しずつ光が見えてくる。

やがて、物語の中で家族になっていく栗原家の苦悩と幸福、
実子を育てられず、闇に落ち、全てを手にしたように見える養親に嫉妬するひかりの壮絶な人生を追ううちにふと、
正解なんて存在しない、
正解を求めることは意味をなさない、と悟るのだ。

皆、大切な人を想いながら、笑い泣きながら、
ただただ必死に生きているだけだった。

この特別養子縁組に対する関心や疑問、不安、幸福の追体験は、例えばニュースや新聞記事で目にしていたとしても、得られなかっただろう。

監督の言う通り、半分ドキュメンタリー、半分フィクションという物語に落とし込んだからこそ、私まで届いたのだと思う。

事実だけでは伝えられないことを、人の心の深い場所へ刻みつけられるのが、映画的物語の役割なのだ。
 

③キャラクターの「役積み」


映画が始まった瞬間驚いたのは、
何より"リアル"だということだった。

それも、「作り物なのにリアルなタッチで描いているんだなぁ」というレベルではない。
有名な実力派俳優ばかり出演しているはずなのに、不思議なことに私の知る役者はそこには1人もいない。

なぜならば、彼らは芝居をしていない。台詞を喋っていないのだ。
完全にそのキャラクターとして、当然のようにそこで生活しているようにしか見えないのだ。

パンフレットやインタビューを読んで謎が解けた。
それもそのはず、
河瀨組では、役作りではなく「役積み」と呼ばれる試練を、役者全員に課すそうだ。

そのキャラクターが実際に体験しそうなことを、役者が実践してみる。
例えば家族役の役者同士が一定期間共同生活をしたり、学校や会社に通ったりすることで、役作りを超えた、「その人自身」になった瞬間を、まるでドキュメンタリーのように監督が切り取っていく手法だ。

今回は日本全国6ヶ所でロケを敢行したそうだが、なんとセットは一切建てずに全て実在する建物や部屋、
さらに全て「順撮り」(物語の進行通りの順番に撮影すること)だという。

本来映画は製作費や時間のコスト削減や効率化のため、セットとロケを併用し、同じ場所のシーンは物語の時系列に関係なくまとめて撮影するのが一般的だ。

撮影現場の何もかもをリアルにすることで、生々しいほどの人間味を映し出していく。
演劇をやっていた人間として、これほど贅沢な、そしてこれほどシビアな環境は他にないと思った。

特に、思春期の真っ只中での出会いと別れを通じて恋慕、激情、諦観、親愛、母性、さまざまな感情を得ていくひかりを演じる蒔田彩珠さんには、鬼気迫るものがあった。
どれほどの絶望を経験しようと変わることのない、純粋な笑顔を抱きしめたいと思った。

キャラクター達の言葉に、眼差しに、一切の嘘がない。たしかにそこに息づいている。
それは、観客を一気に物語の世界へ引き込んで離さない強力なエネルギーとなっている。
だからこそ、体験したこともない他人の、フィクションの人生に深く共感できるのだ。

あまりに深くあちら側の世界に入り込んでしまい、観終わった後はしばらくこちら側に戻ってくることができなかった。


④光と音楽という「キャスト」


河瀨監督ならではの仕掛けはまだまだある。

誰もが目を奪われ惹きつけられるのが、
時折挟まれる美しい自然と太陽の光のショットだろう。

言葉を発しない海や森が、揺れる光が、
観客の遠い記憶を呼び覚まし、スイッチとなり、
やがてキャラクター達の目線に同化していく。

人間はこの地球に生きているのだ。
どれほど時代が変わろうと、どんな人生を歩もうと、同じ自然に抱かれているのだという、圧倒的な普遍性の中で安堵する。

大自然のショットの中でも、タイトル通り、さまざまな「朝」の到来を見ることができる。
都会のタワマンのバルコニーから見る青く冷たい朝焼け、海辺でひとり静かに眺める宝石のような朝陽、再出発を後押しするようにゆっくりとあたりが白らんでいく朝靄。
キャラクターの心情の変化に呼応するように、それぞれ全く異なる朝を迎える。

必ず、朝はやってくる。
それは出会いであり、別れである。
苦しみのリセットであり、希望の入口である。
光が、優しくそれを物語ってくれていた。


さらに音楽も、先日鑑賞した『ソワレ』同様、非常に大きなファクターになる。

音楽と記憶は結びつきやすい。
心の拠り所にしているひとつの歌が、やがて交わるはずのなかった2人の母親、そして子どもを繋いでいくという演出は、あまりにもニクい。

C&Kの書き下ろし主題歌もさることながら、
小瀬村晶氏の沁みわたるような最小限のピアノも、筆舌に尽くし難い。
キャラメルボックスの劇伴やドラマ『中学聖日記』でも遺憾なく発揮されてきた、物語を決して邪魔せず、過度に盛り上げることもなく、粛々と背景に徹する、それなのに心に残って離れない澄み渡る音色が琴線に触れる。

無駄なものも足りないものもひとつもなく、全ての要素が互いに作用し合い、共鳴し合って、人間を輝かせていく様は見事だった。

最後に  「あなたは、誰ですか」


ここまで、河瀨監督だからこそ生み出せた素晴らしい仕掛けの数々に触れてきたが、
枯れるほど涙を流しながら、最終的にたどり着いたのは、

ポスターにも刻まれている
「あなたは、誰ですか」
という問いだ。

辻村深月氏による原作のミステリ要素を強調したような文言だが、河瀨監督の趣旨は全く違うところにあるはずだ。

それは、映画を創る監督自身への問いかけであり、
観客ひとりひとりへの問いかけだ。

自分とは、何者なのか。
すなわち、自分にとっての
正しさとは何か。
優しさとは何か。
幸せとは何か。
生きる意味とは何か。

今一度自分に問うてほしい、というメッセージではないか。


自分にとって、どんな朝が来ることが望ましいのか。誰と朝を迎えたいのか。
多くの人が不安な暗闇に引きずりこまれそうになる今、ふと空を見上げる力をくれる、宝物のような時間をもらった。

浄化され、救われ、許され、希望をもらった。

パンフレットでは監督やプロデューサー、役者への丁寧なインタビュー、そして光を纏った劇中写真が素晴らしい。ぜひ観賞後には手に取っていただきたい。


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