「宇宙を巡りて」未来への手紙
「未来」という言葉に一通の手紙が胸をよぎった。
思い出の品をしまい込んだ箱の中、いくつかの手紙と写真と一緒に残っていた。それは24年前の元旦に届いたおじいちゃんからの手紙。
日付はその更に15年前に記してある。
この手紙は今から約40年前、おじいちゃんが未来に宛てた手紙です。
この手紙の話をnoteに書くね!とおじいちゃんに相談したいけれど、残念ながら数年前に宇宙へ旅立っていった。同封の写真がブロマイドのようでとても、かっこよく撮ってもらったらしい。
120歳まで生きるよ、と冗談半分か本気か、あんなに言っていたのに、年齢にあらがえず最後の数年は認知症の日々。今も健康で生きていたら、100歳はゆうに超えている。
おじいちゃんはどんな未来を想像して生きていたんだろう。
60歳の手習いでパソコンを始めたおじいちゃん、80歳を超えてデスクトップPC持っていて元気なうちは情報の吸収力がすごかった。今でも元気だったらスマホはスイスイやっていたかもね。
おじいちゃんに話したいことが山のようにある。
思いもよらず、お付き合いした人ができて結婚したけどね。最初の1年はとっても大変でね。色んな事情ができて旦那さんが単身赴任している。わたしは仕事を辞めて、人生に迷っているよ。正直、どうしていいのか分からないど真ん中にいる。
だけど最近なんだか、未来を少しだけ明るく思い描けそうなんだよ。
おじいちゃんとの思い出はさかのぼり、わたしが20代のこと。
10代から20代にかけて、実家の家計は苦しく相談の果てに、おじいちゃんが助け舟をだして色々と肩代わりをしてくれることになった。
わたしは社会人になって働き始めていたので、毎月お給料が出るとおじいちゃんの家に封筒をもって訪ねて行く。
「これ今月の分です」と渡すと、「うん」とおじいちゃんは事務的に預かる。
毎月、毎月、自分の給料袋から、もらったばかりお給料のお札を数枚取り出して、おじいちゃんの家に訪ねて行くのが、毎月のわたしの習慣だった。
同年代の友達が、素敵なものをみにまとっている姿を真似たくて、リサイクルショップで洋服を買ったりもして心の隙間を埋め尽くした。キラキラした青春や時間が欲しくて、財布の中身は少ないのに誰かと一緒のことをすれば、幸せになれる気がして背伸びばかりしていた。
おじいちゃんは助けてくれていたのに、「うん」と事務的に預かる姿に会うが苦しくなった時期があった。まっくろな感情がむくむくと湧いてきて、その月はおじいちゃんの家に足が向かず、給料袋ごとぐしゃぐしゃにして真っ暗な部屋で泣いた。手取りは少ないし、頑張っても、頑張っても、お給料は途方もない何かに消えていく。
「何のために働いているんだろう」と思えて仕方なかった。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ぐしゃぐしゃにした封筒を手で広げてのばした。わたしの大切な一ヶ月分。誰が何と言おうと、例え誰かから見て少なくても、わたしの立派な一か月分。そう思って、中身ごときれいにのばしているうちに、涙も止んできた。
助けてくれたおじいちゃんを黙って独りぼっちにして、生き別れる方がつらくてその翌月には、いつもように訪ねて行くと、何で先月来なかったと言わずに、いつものように「うん」と封筒を預かって、お茶をだしてくれた。
数年後。おじいちゃんの家に封筒をもって、訪ねて行くその習慣はおわった。最後にもおじいちゃんは変わらず「うん」と言ってお茶をだしてくれた。
毎月訪ねて行くと、普段は寡黙なおじいちゃんとお茶のみをして世間話をするのが恒例になった。ひとり暮らしで話し相手がいないからかなぁ…なんて思っていたけれど、おじいちゃんは自分の話をしてくれるようになった。
おじいちゃんのお父さん(私にとっては曽祖父)は追分という、今でいう歌手のような仕事をしていたらしい。さすがに田舎で歌だけでは食べていけずに、おじいちゃんは家は貧しかったそうだ。
話から察するに、おじいちゃんはわたしと同じような経験をしていた。
実の父親の歌を聴く機会はなかったし、家で歌ってくれることもなかったそうだ。歌を恨まなかったけど、おじいちゃんの口ぶりから聴きたくはなかった印象さえ覚えた。
しかし、たった一度だけ、おじいちゃんの前で歌ってくれた時があったそうだ。
おじいちゃんが出兵するときに、たった一度だけ。
出兵前夜、初めて聴いてそれが最後になった。
嬉しそうにも悲しそうにも見える顔で話してくれた。
おじいちゃんは、満州で終戦を迎え、自力で本土まで還ってきた。
戦地で友も亡くし、なんとかかんとか故郷までたどり着いたのに、家は貧しくまわりを見ても畑や田んぼも、道も、全部、全部、今見ている景色とは違ったと何度も、何度も話してくれた。
そして、みんなどの人も苦しかった、と。
未来がしあわせにあるように、道路も田園も便利で過ごしやすくなるように頑張ってきたと、あの手紙を読むまでおじいちゃんは語らなかった。とても口下手だったから。
お父さんの追分の話や出兵前夜の話も、孫の誰ひとり知らず、子どもの母でさえ聞いたことがないとおじいちゃんが旅立ったあとに知った。
毎月、封筒をもって来る孫の姿に、おじいちゃんは心のどこかで自分を重ねていたんだろうか。
そう思ったけど、誰も知らない話を聞いていたくらいで、そんな傲慢ことを想像してしまって、静かにその思いは閉ざし家族には話せずにいた。
わたしはおじいちゃん達の世代の苦労は知らず、道路や畑や、テレビも全部、物心ついたときからあった。
芸術に憧れていた10代、接客業に明け暮れて充実した20代、医薬品と健康に関わった30代、これからの40代はどうなるんだろう。
人の役に立って、キラキラ充実して、特別な何かを手にして、もっともっと輝いている自分を想像して生きてきた。
それなのに、今の自分はどうだろう。何にも役にも立てていない。
「人の役に立つ…って、どういうことだろう。」
そんなことを考えながらある朝、洗濯物を干していた。
変えたばかりの柔軟剤と洗剤の香りがまじっていい匂い。
晴れて暖かく、思わず窓を開けると、鳥のさえずりが聞こえる。
洗濯物のしわをのばすとピンと伸びる。
こうして生活があって、ご飯と、家族がいて、友達がいて、ありふれた幸せを守るためだけに生きている。
遠く離れた場所にいる夫から電話が鳴って「おはよう」と声がする。
声が聞けなくても「おはよう」と瞬時に文字が届く。
すごく便利になったよね、おじいちゃん。
想像を超えた未来を私たちは生きている。
これからは、10年20年先の自分のために、また仕事がしたい。人と自分を幸せにできる仕事をえらびたい。
まだ全然、想像ができないけれど、良い縁があれば良い職場に出会える気がする。
平和でなんでもない幸せが、ずっと欲しかった。
おじいちゃんも、おばあちゃんも、両親も、先人の人たちはみんな、
きっと、欲しかった。願っていた。未来に生きるわたし達がしあわせにあることを。
私も未来を思い描きながら、今を生きている。
またいつか宇宙で会おうね…おじいちゃん!
追伸:(手紙で割愛と誤字修正した箇所があります。勝手にごめんね、おじいちゃん。)