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日本人は、アメリカ人のメンタリティから大いに学べることがあるよ、という話

おもに、私がアメリカにいた5〜6年の間に出会ったアメリカ人たちの話。


「出来る」のハードルが低い

これは私がアメリカで日本語を教えていたので、初対面の相当な数のアメリカ人に実際に言われた言葉


I can speak Japanese!

実際何をどのくらい喋れるのかと思ったら、コンニチハ、サヨナラ、ツナミ、とかだけだったことも結構ある。

よくそんな少ない単語知ってるだけでそんなに、自信満々に喋れるって言えるな!?と突っ込みどころ満載なんだけど、実際会話の掴みとしては最高だし、そこから話が展開してくことも多いし、自信満々にそう言った結果本人たちは日本人の私と会話をすることが出来て、さらに新しい単語や文章を学んだりしているのに気づいて「多少のハッタリかましても、最初は自信満々に出来る!」というのは大事だなと思った。

もちろんアメリカはこの手のハッタリが本当に多いので気をつけなきゃいけない部分もあるんだけど、どんなに英語勉強しても「出来ない」「私はまだまだ」と言い過ぎな日本人は、多少大げさにアメリカ的ハッタリメンタリティを取り入れるくらいが丁度いいと思う。

他人をやたらと賞める

アメリカに住んでいて良かったことの1つはこれ。道行く人とかも、知り合いも、とにかく小さなことでも褒めてくれる。やたらと褒めてくれる。

しかもその褒め方が、I love your dressみたいな感じで、良い悪いのjudgeではなくて「好き」などの、その人の感性や意見として言ってくれる。これでけっこう自己肯定感があがったし、何かネガティブなフィードバッグがあったとしても、それは自分がダメだということではなくて、あくまで個人の価値観の違いと思えるようになった。

そういう前提で物事を見るようになると、NOも割とハッキリと言えるようになる。

NOが言えると、自分にとって心身の負担になるものから距離を置けるようになるので、自分の幸せにも繋がる。

好きなものは全面に出す

アメリカで日本語を教えてて面白いなと思った現象があった。それは、それぞれの学生の好みが一発で分かるということ。

というのも、ピンク好きな人はいつ見ても大抵全身ピンクだし、青が好きな人は大抵いつも青を着てる。めちゃくちゃ分かりやすい。いうなれば、全員がカズレーザー的服の選び方をしていた。

色という単純な要素で無かったとしても服装の系統とか、とにかく見た目でその人の好きなものが分かりやすかった。

好きを全身で表現しているというか。

服装以外にも、言葉でも好き嫌いをかなりはっきり主張する。主張しないと存在しない、という価値観が根底にあるからというのもあるけれど。

自分の好きにここまで素直になって、意見表明して良いんだなというのに結構感動した。

日本だと、年相応とか〇〇らしく、TPO..とかそういう部分が最重要視されるので。

TPOに関しては、もちろんある程度はアメリカでも大事。でもその中で、自由に選べる部分で自由に好きを選んでいるという感じ。

前に、大好きなアメリカ人の友達に言われて目からウロコだか涙だかが出たのは、とてもとてもシンプルな言葉。

「好きな時に好きなものを着ればいいよ」

当時私はまだ若く、日本語教師になりたての頃で「教師としての威厳を見せるために教師らしい、大人っぽい服装をしなくちゃ」と思っていた時期。

そんで、それまでカジュアルしか着たことなかったのにバナリパとかにいって無理にオフィスカジュアルみたいな服買って違和感覚えながら着てた時期。背伸びしてた時期。

でもよくよく見てみると、他の先生たちは普通にジーンズとか履いてたし結構カジュアルだったし、アメリカは良い意味で年齢関係ないので教師が若かろうとなんだろうとプロであればきちんと尊重してくれた。

それに数年して気づいた。

良くも悪くも他人に干渉しない

他人に対してかなりドライ。

お互いに違った価値観や意見を持っていてオッケーというスタンスがあるから、意見が違った場合のディスカッションも後腐れがない。

その代わり、良くも悪くも他人に対してかなりドライ。ある意味興味がないとも言える。なので干渉しない。

そういう部分が、私としてはかなり楽だった。もちろん、大変な部分もあるけど。でも過干渉気味の日本人はドライなくらいが丁度いい気がする。


ハンディキャップも「権利」になる

これは、発達障害に対する大学などでの対応の仕方をみていて思ったこと。

日本では、そういうハンディキャップを持つことは恥ずべきことと根底では思ってて、そういう人に対して腫れ物に触るような扱いをする人が未だに結構いる。

が、アメリカでは生活で困難がある場合にはそれを埋めるだけのサービス(福祉的な)を受けられる権利がある、という価値観が根底にある気がする。

たとえばADHDの生徒は注意力がそれてしまいやすいので、本人の希望があれば学校の試験を別の部屋で受験可能で、制限時間も伸ばすことが出来た。なので教師は生徒からの要請があれば、その別会場(大学の支援センター的なところにある教室)に事前にテストを届けなくてはいけなかった。それは、制度としてそうなってた。

あとは、中学・高校などのSpecial educationやギフテッドのクラスとか。教育学の修士課程に通ってたので、special edやギフテッドのクラスの担任を受け持つ先生がクラスメイトとしても結構いた。彼らが、それぞれの生徒の特性に合わせて教育を学び、提供しようとしてるのを見て、素直にすごいなぁと思った。

あとはマイノリティに対する権利についてもそう。

ただ、アメリカにおいてはマイノリティ側の権利の主張みたいなものが行き過ぎて問題になってたりもするので、適度なバランスは大事かと思う。でも日本は行き過ぎるという地点にすら至ってないのでまだまだ主張してもいいのではないかと思ってる。

必要の無いことはしない

日本では自己犠牲とかサビ残的なもの、過剰なカスタマーサービスがまだまだ抜けきれてない。一方でアメリカはそういう精神が皆無なので、ある意味気持ちがいい。

スーパーの店員が本当にぶっきらぼうで、how are you?に対して平気でnot wellと言えたり。

あまりにサービス精神がなさすぎてカスタマーサービスではイライラする事も多々あるんだけど、それはそれとして。

私の前の上司はアメリカ育ちだったこともあり、お客さんからの無茶振りや無賃労働になりそうな部分には結構ザクザクと切り捨てていっていた。やるなら追加料金、追加料金払わないならやりません、という徹底した態度。

我々も相手も外資だからこそ出来ることでもあるのかもしれないけれど。でもその方針のおかげで私のチームは業績がかなり良かったし、何でもかんでも引き受けすぎてオーバーワーク、ということも無かった。部下としては、かなり守ってもらえていたなと思った。

プロとして、求められたものを一定以上のレベルに仕上げて提供するのは当たり前に大事なんだけど、それ以上・それ以外の部分を無茶振りされるような時には毅然としてNoを突きつける(たとえお客さん相手でも)というのは、時に大事なことだなと感じます。

最近は、日本でもそういう部分は良くなってきているのでいい動きだなとは思う。


まとめ

私はアメリカバンザイ!という立場ではない。

アメリカという国、文化はあれはあれで極端なので、手放しで理想的とは決して思わない。

でも、日本とは割と対極的な文化を持つ国ではあると思うので、日本人の私たちが学べる部分はたくさんあるなぁと思うのです。

個人的には、アメリカと日本を足して2で割るくらいが丁度いい気がしてます。

なので、アメリカは日本から学べる部分学んで欲しいなぁと思ったりもする。そんな日が来るかは分かりませんが。

あくまて個人的な感想です。   

おわり。

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