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【育児】後天的バイリンガルの私が、我が家でおうち英語をする理由

こんにちは

先日会社で後輩の子(日本人ではなく、英語、日本語、自分の国の母語を話す)に子どもの言語について聞かれました。

今現在1歳七ヶ月の娘。
かなり言葉の習得が増えてきて、色んな言葉が言えるようになってきました。

その中で聞かれたのがどれぐらい日本語と英語を話す?どっちをどれくらい話してる?という質問。

後輩自身、そろそろ今の彼と結婚をしてなるべく早めに子供が欲しいそう。ただ、彼も彼女とは違う国出身で話す母語も違う。そして両方が異国の地である日本で暮らしてる。そういう状況で、日本語、英語、母語1、母語2をどう使っていこうか迷ってるらしい。

そんな話を後輩としてて、言語教育についての私の価値観や我が家でのスタイルについてを改めて考えたので今日はそのことについてまとめてみようかと思います。

ちなみに私は「後天的バイリンガル」です。つまり、家族や親戚がバイカルチャーだったわけでもなく、生まれ育った環境がもともとバイリンガル環境だった訳でもなく、それでも成長の過程で二言語めを習得してバイリンガルになった人間です。




我が家の言語教育スタイル

我が家の言語教育としては、日本語をベースにしつつも英語の絵本やリスニング、英語での語りかけをところどころに取り入れているスタイルです。

英語の絵本はliao英語のリストにある本ですが、まだ一歳七ヶ月なので、最初の20冊ほどしか揃えていません。それプラス私自身がもともと持ってた英語の絵本。今のところ、それで十分です。

日本生まれ日本育ちの日本人にとっての英語教育(おうち英語)については、色々な価値観やスタイルがあるかと思います。

我が家では、英語をバリバリ!日本語よりも力入れて!とまでは行かないまでも、小さなうちから、少しずつ触れさせることはしていきたいというスタンス。

そして、将来のために、英語を使いこなせるようになってほしい!というよりも、どちらかというと英語という言葉を身近に感じて、情緒的な繋がりを感じて欲しい…という感覚の方が近い。日本で生まれ育っているので、日本語は母語として圧倒的な存在感を持つのは当たり前という前提で、その上で英語にも距離を感じずに親近感を覚えられるようになってほしいというか。

ある意味で「継承語」と似たような立ち位置で、英語教育を捉えています。


継承語とアイデンティティ

継承語というのは、生まれ育った国の言葉や母語とは別に親戚や家族か話す言葉で、子どもの文化的背景として継承していく(いきたい)言葉のこと。

アメリカにいる移民二世の人たちの、親の母語とかね。

実際に本人が生まれて育っていく環境では必須ではないんだけど、自分の出自というか、文化的アイデンティティを保つために学ぶようなイメージ。人によっては、家族との会話などで自然に身につけて行くこともあるけれど、習得自体に結構本人の努力も必要だったりするので、どうやってどこまで教えていくのか…というのは各々の家庭ごとに課題だったりもする。

でもどんな状況であったとしても継承語を学んでいくうえでポイントになるのは、子ども本人がその言葉に懐かしさや親近感を覚えられるかということと、その言葉を理解して喋ることが自分のアイデンティティを確立する助けになっていることだと思います。

そういう意味で、私は英語を継承語のごとく捉えて子どもに伝えていきたいな、と思ってる。自分の母語な訳ではないんだけど。

つまり、英語を身近なものとして感じ、自分自身のアイデンティティの一部として自然に吸収していって欲しい、そのために家の中でも英語を取り入れていきたい、ということ。

それはなんでかというと、私自身が、英語によって自分の心のバランスをとれるようになったし、アイデンティティを確立していく中で必要不可欠なものだなと感じるようになったから。

私自身の経験

私の肌感覚として、日本語という言葉はとても情緒的で、繊細で、美しいものです。私のもともとの性質ともマッチしているし、すきな言語です。だからこそ、言葉の芸術でもある文学、日本文学を学ぼうと思ったのだと思います。

でも同時に、そういう性質というのはかなりかなり現代社会では生きにくい。人に理解されづらあし、ふわふわしているし、合理的でもビジネスライクでもない。もちろん、日本語だけでもビジネスライクで合理的に生きていける人も多いしそういう人が大半だと思う。でも私においては、日本語だけでは、それが出来なかった。

子どもの頃から私は実利的な世界において、上手く立ち回ることが出来なかったしかなり「損」ばかりしてきた。このままだと、いつか他人や社会にいいように利用されるだけされて野垂れ死ぬんじゃないかな?というくらいに生きるのが下手でした。

時代が違えば、生前は全く売れずに死後にやっと存在を認められた芸術家みたいになっていたかも?そんな感じ。

そんな人間だったのですが、英語を学ぶ過程で論理的思考や批判的思考、合理性、Noという力…なども同時に身につけることで、私は自分の社会性をなんとかかんとか養えるようになりました。

周りと比べると大分出遅れはしたけれど、おかげさまで普通に社会人として仕事をして生活ができるレベルにまでなった。

ちなみに今の私の仕事は英語が必須…というかやりとりのほとんどが英語です。だからこそきっとビジネスライクに仕事の事を考えて、ある意味割り切って周りと付き合い、なんだかんだで続けて行けていると思ってる。

社会的な私の性格は、英語によって形作られている部分がかなり大きい。


行動遺伝学と、子どもの性質

最近では行動遺伝学が子育てや教育でも注目され始めていて、子どもというのは思ってる以上に遺伝的に親に似てくるというのが分かっています。それは、知性とか運動能力とか、分かりやすい基準で判断するというよりも、どういう場面で不安を感じやすいかとか、特定の状況下でどんな反応を見せるのかといった部分で現れたりする。

そういう知見を見聞きしていても、自分の子どもが、どこかしらの要素で自分に似てる可能性は高いんじゃないかなと思ってしまう訳です。

性格的に、私とは似つかず世渡り上手な性質があればそれはそれで万々歳なんだけれども、「もしかしたら、この子もこれから繊細でナイーブ過ぎて苦労するのかもしれない」という危惧はどこかしらある。

そしてそれを前提として、私が恩恵を受けた英語の存在を子どもにも伝えるだけでも伝えておきたい…という親心。


夫婦でのコンセンサス

ちなみに我が夫婦は結構性質的に似た者同士なので、ここらへんの感覚をお互いにすんなりと理解出来ていてコンセンサスも割と取れています。

夫の方が生きていくのは大分上手いけれど、色々なことに対する視点や考え方、捉え方なんかは似ているところが多いし、「普通」とは言えない部分が多々あるところも似ている。そしてそのせいか、歩んできた人生もどこかしら似ているところがたくさんある。

その一つが海外生活や英語。夫も後天的バイリンガルだし、自ら選んで学生時代海外生活を続けていたし、いまの仕事でもなんだかんだずっと英語を使ってる。

だから、この夫婦からうまれた子どもに対して、熱心に教育するわけではなくとも、英語に触れる機会を与える…というのは至極当然の成り行きなのかもな、という思ったりもします。


まとめ

私達夫婦のようなスタンスで英語学習を取り入れる人たちって、日本ではもしかしたらあんまりいないのかもしれないな…と書きながらふと思いました。

どうしたって英語って世界の共通言語だし、出来たら役に立つし、将来性もある。だから、教育として、「より上を」目指すために出来るようになってほしい…と思う人がもしかしたら多いのかもしれない。(違ったらすまん)

だからこそ巷に溢れている英語学習教材や教育法はたくさんあるし、情報も多いし、これから先翻弄されることも多い気がしてる。

でもとりあえず、我が家では、一番忘れちゃいけないこととして、「ここまでのレベルに育てたい」という目標は全くたてないことにしようと思っています。迷いそうになった時は「継承語!」と唱えながら。

それぐらいの気軽な(だけど真剣な)姿勢で、取り組んで行こうと思ってます。


おわり。

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