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コロナウィルスと東日本大震災は似ている①

今、コロナウィルスで世界で暴動が起きたり、先の見えない不安があったりと、不安定な日々が続いています。

先の見えない不安。私にも覚えがあります。それは、東日本大震災。今年の3月11日で震災が起きてから9年目になりました。

災害との闘い。先の見えない不安と戦い。

半面、人は前向きに生きれる、また再度立ち上れる。そういう経験もできました。少しでも前向きになってくれたらいいなと思っています。

コロナウィルスで亡くなられた方、ご家族の皆様、お悔やみ申し上げます。そして、医療従事者の方、施設の方々ありがとうございます。

東日本大震災-14:46

3月上旬 高校3年生。

家から5分くらい自転車を走らせたところに、広がるのは海。沿岸には沢山の小さな船が留まり、漁師さん?が海苔の養殖をしている。町の自慢は海苔。近くには、小さな神社と一緒になった公園。少し先には、造船所があり、もっと先には外国船が留まり、肥料などの積み荷を降ろしている。母の職場の保育所もここの近くにある。自転車で20分ぐらい行くと松島基地がある。この前、東京の空を飛んだブルーインパルスの基地。毎日教室の窓から飛んでいるのを眺める日々。

家は4人家族、海の近くで働く父、保育園の先生の母、事務で働いている姉。当時高校生の私。家は2階建てで、庭には広い畑がある。夏にはトマトやキュウリ、ナス、ゴーヤなど様々な野菜が育ててあり、柿の木がある。友達とよく鬼ごっこをして遊んだ。

地元、宮城県東松島市。


宮城の3月は寒くて桜の咲かない季節。晴れて私は高校を卒業しました。

2011年4月からは大学へ、次の生活へ期待と不安半々が入り混じっていました。キャピキャピの大学生活スタートー!ってなるはずだったのに…。

その日は、自動車の免許を取得するために、教習所へ。たまたま朝寝坊したため、朝ご飯を抜き、そしてなによりその日は…

髪を染めに行く日!パーマをかけに行く日!と決めていました!

高校では染められなかったから、卒業したら、絶対染めに行く!パーマもする!(笑)と決めて、変わったらどうなるんだろー?家族はビックリするかな?と期待しながらワクワクして家を出ました。

午前中に教習が終了し、午後は地元でいつもお世話になっている美容室へ。

「今日はどうする~??」と担当の美容師さん聞かれて「今日はカットとパーマとカラーで!」とお願いしました。

「結構イメチェンだねぇ~終わったらり楽しみだね!」なんて話ながら。

隣の席のは、姉の友人がいて、軽く会釈をしました。小さい田舎町なので、何処かに行くと、誰か知っている人に会う状態。(笑)

カットとカラーが終わり、パーマをするために、ロットを巻いてもらいパーマ液を掛けてもらい、これで流せば終わり!という時。

ゴーーーー。という地鳴りとともに、グラグラグラと揺れ。あっ!地震だ!瞬間的に感じました。

私たち(お客さん)が怪我しないように、目の前の鏡美容師さんが抑えてくれていました。宮城県は地震の多い地域で、心の中では「またか」と思っていました。

いつもよりは揺れが強いなってくらいしか思っていませんでした。

揺れが収まってから、美容室が断水してしまったとの事でこれ以上お店を続けられない状態になり、指定避難所になっている学校へ美容師さん達と一緒に向かいました。水をもって。

私はロットをつけたまま避難所へ(サザエさん状態)。姉の友人はブリーチをしてそのまま避難所へ。

とりあえず、生徒も町の住民も校庭に集められしばらくの間、外で過ごしました。大げさだなぁ。心の中でそんな風に思っていました。

近くのマンションが倒壊して、湯気?ガス?みたいなものが漏れ出してました。そして、宮城県でも珍しい雪が降っていて、昼間は暖かかったので薄着で来たことを後悔しました。めちゃめちゃ寒かったのを今でも思い出します。親に電話をしようにも、電話がつながりませんでした。当時はガラケーだったので、ラインも無く連絡手段は無かったです。

学校の先生が、「皆さん中に入ってください」との事で私も指示に従う事にしました。この時でさえ、何が起こっているのか?全くわからなかったです。

ただ、寒いことから解放される!やっと中に入れる!おなかすいた!この事だけしか考えていませんでした。

東日本大震災-1日目

校舎の中に入り外をぼーっと眺めながら、いつまでここにいればいいの?と呑気な事を考えながら20分くらいたった時、じわじわと黒い水が校舎に向かってきました。最初は「うん?なんだこれ?どこから来たんだ?どこの水だ?」と思い。時間をかけながら、それでいてあっという間に校舎の1階まで浸水してしまいました。

テレビのように、ものすごく激しい津波のイメージとは真逆で、ゆっくりと、そして確実に飲み込んでゆく黒い水。何が起きているかわからない不安感が少し胸をざわつかせました。とりあえずここにいるしかない。1日もすればなんとかなる。自衛隊も、警察も、消防署もある!行政も動いてくれる!と思いながら。

校舎に入ってからロットを取ってもらいました。姉の友人はブリーチしていたため。痛い、痛いと言いながら持ってきた水で髪を洗っていました。※ブリーチは結構頭皮がヒリヒリします。

夜はとても寒かったです。電気のつかない校舎。暖房の入っていない教室。固く汚い床。冷たく固い椅子。水も、ごはんも食べれない。というか、そもそも食料が無い。(あっても全員分ないから配れない)朝ごはんも何も食べていなかったので、朝食べればよかったと後悔しました。空腹と寒さでとで、とても寝れる状況ではなかったです。

そして…何よりも、重い空気。

「私はいつまでここにいればいいの?!」「早く帰りたい!!返して!!」と帰宅を訴える人「なんでこんな事になっているの?!」状況が分からず混乱している人「喉乾いた」「〇〇さんが持ってたお茶一人で飲んで、誰にも分けようとしなかった。意地の悪い人」と噂をする人、泣き出す人。明るく和ませようとしてくれる人もいた。

危機が迫ったら人の本性がでるんだなぁと思いました。

外を見れば真っ暗闇と赤い炎。

今いる避難所から7キロほど先に工場地帯があり、工場は赤くずっと燃え続けていました。7キロも離れた場所でもわかるくらいはっきりと。避難所と工場の間には住宅地があるので普段は建物の陰に隠れて見えないのですが、今思えば、周辺の家や建物が津波でなくなって、見えたのかなと思います。

とりあえず今起きている状況を確認しようと思い、携帯のワンセグ(携帯でTVを見れる機能)で見始めました。充電が切れないように。分かった情報は7キロ先の工場地帯の炎上と千葉県の石油コンビナートが燃えている事くらいでした。今の状況を?全く情報収集できなかったのです。

携帯の電池は、なくならないように切っておきました。充電ができない事(電気が通ってないため)と何度も電話してもつながらない事、回線が回復した時にすぐに連絡を取れるように。

とりあえず、早く寝ようと思いました。なぜなら、「不安、寒い・お腹すいた・帰りたい・得体のしれない大きな何かの恐怖」が自分自身に迫ってくるからです。考えないように、寝る事に集中しました。


コロナの記事を書こうと思ったのに、震災中心の話になってしまいました。長くなったので、②に続きます。コロナの状況など被ると感じた事などは②書こうと思います。










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