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モンゴルの世界ー②壁が消えた日

今回はこんな空想から始めてみたい。

あなたは全世界を征服し、そこを統べる帝王の地位についた。ただし、放っておけばこの帝国はすぐに分裂、瓦解してしまうだろう。さて、一切の国境が消えたこの世界をキャンバスにして、あなたならどんな絵を描くだろうか。どうやって新しい秩序を構築して、新世界を創造するだろうか。

クビライが見ていた景色

13世紀。全世界の大半がモンゴルの軍門に降った。この空前絶後の大帝国は、絶え間なく征服戦争を繰り返すことによってかろうじて統一が保たれていた。征服は仲間に富をもたらす。勝ち続けることで新しく仲間に加わる者が増えていく。しかし、それもすでに限界に達していた。このまま手をこまねいていれば、あっというまに帝国が瓦解することは火を見るよりも明らかだ。膨張の時代から、経営の時代への転換が迫っていた。

この広大かつ危うい世界帝国を受け継ぐことになった男は、どのような世界構想を描いたのか。権力は無限にある。自分の一声で世界中のリソースを集めることが可能だ。全世界から賢人を集め、古今東西あらゆる国のシステムを参考にしながら、今までにない新しい世界秩序を創造することができるのだ。

これが、カーン継承後のクビライが見ていた景色だった。

クビライのブレーンたち

クビライの政権を支えるブレーンたちは、さまざまな人種からなり、それぞれの勢力を代表していた。基盤となる軍事を抑えるのは、チンギス・カン以来モンゴルを支えてきた有力氏族の代表者たちである。彼らが政権中枢部を構成し、首脳会議によってすべてを決定した。

そして、クビライを支える実務スタッフには、世界中から集まった多彩な顔ぶれが並んだ。財務や通商を担ったのは、イラン系ムスリムのブレーンたち。その背後には巨大なムスリム商人団があった。行政庶務は漢族が中心となって担当した。彼らは広大な国土を統治するための法や官僚組織の構築に長けていた。他にもあらゆる言語を話し東西文献に精通したウイグル人の大学者や、女真王族出身の仏僧などが文化・宗教面を担うブレーンとして参画していた。

クビライは人種・宗教を問わず世界中から有能な人財を集め、すべての意見に耳を傾け、取捨選択し、彼らを適材適所で登用して、世界帝国の経営を担う中枢組織を築いた。重要な政策は、側近やブレーンたちと議論を盛んに行い、綿密に分析・検討をした後に決定を下していった。

クビライの新世界構想

当時のモンゴル帝国は、クビライが直接支配する宗主国の大元ウルスの他に、西北ユーラシアのジョチ・ウルス、中央アジアのチャガタイ・ウルス、西アジアのフレグ・ウルスがゆるやかに連合する世界連邦に変身していた。

こうした体制は常に、内乱、分裂の危機を内包する。軍事力のみで世界の隅々まで抑えこむのは無理があった。では、何によって世界はつながるのか。何によって人々は支配を受け入れ、ひとつにまとまれるのか。クビライとブレーンたちが出した答えは、「富」の力であった。これまでの富の獲得方法は周辺からの収奪である。しかし、もはやそれは限界だった。今後は、富を増幅させ、その富を世界中に巡らせる仕組みを構築する必要があると考えた。

クビライの新世界構想は、草原の軍事力、中華の生産力、ムスリムの商業力を融合し、富を世界に循環させ、分裂しがちな地方勢力を通商によってつないでしまおうというものであった。富の源泉と流通システムを握る大カーンは、かつてないほどの巨大な富の所有者となり、権力を掌握することになるであろう。

帝都建設

クビライのあらゆる政策は、この壮大な世界構想に基づき進められていった。政権確立後、まずは新世界の中心となる首都建設に取り掛かる。

クビライ時代のモンゴル帝国の首都は、草原に位置する上都と、金朝以来の中心都市である中都に分かれており、夏季は上都、冬季は中都と、季節ごとに移動する方式だった。この中都のそばに、「大都」と名付けた新しい帝都が建設された。現在の北京の基となる都市である。

大都は、外見は中華王朝の理想型に区画整備された都市デザインであったが、他の王朝都市にはない特徴を備えていた。大都最大の特徴は、海と結ばれていたことだ。経済的に豊かな長江下流域の江南から中国大陸を貫通する大運河を整備し、水路を大都へとつなげる。そして都市中央部にある巨大な人工湖に、江南の豊富な物資はもとより、インド洋を通って運ばれてくる西方の物品を満載した船が集まってくる。つまり大都は、はじめから水上物流のハブとして、流通システム全体が設計された上で建設されたのだ。

一方で、陸の交通網は夏の都である上都に集まるように設計されていた。その上都と大都はバイパスによって繋がれ、上都と大都を結ぶ首都圏の中に、世界中から政治、経済、文化、商工業を担う機能を集中させていった。

こうして陸と海の両方から人と物が集まる世界の中心が構築された。いわば大都は、世界中に血液を巡らせるための心臓であった。

南宋併合

新首都建設の発表から翌々年、南宋併合作戦が発表される。当然これは新世界構想を実現するためのプロジェクトの一部であり、世界最大の富を生み出す江南の経済力をネットワークに組み込むために行われた遠征である。すでに説明したとおり、大都建設は南宋を吸収する前提で進められていたのだ。

この南宋遠征は、今までモンゴルが行ってきた征服戦争とはまったく性質の異なるものであった。まず遊牧民国家にとって、東西の遠征によって領土を広げた国は多いが、南への遠征は例がない。長江流域から南のエリアは河川と海に囲まれており、土地も森と湿地帯に覆われている。必然、騎兵を活かす戦い方がしにくいし、馬に匍わせる牧草地もない。自分たちの強みを活かした戦い方ができない場所なのだ。

そしてこの遠征では、破壊や略奪を許してはならない。経済的に繁栄した江南エリアをそのまま世界ネットワークに組み込むことが目的なのだ。つまり兵士たちを今までとは異なるインセンティブで動かす必要がある。

クビライの遠征軍は、この難しいミッションを完遂する。工兵による包囲作戦、モンゴル水軍の建造、飛び道具や攻城兵器の活用など、これまでの遊牧騎馬兵による戦争とはまったく異なる新しい発想で攻略を進めていった。また、降伏した将軍を厚遇しそのまま自軍へと組み入れる懐柔策が功を奏し、江南の都市はこぞって降伏・開城した。南宋最大の都市である杭州も無血開城された。こうしてクビライは、無傷のまま江南を手に入れることに成功した。

史上初のグローバル経済圏

江南を組み込んだことで、モンゴル帝国は遊牧民出身の国家でありながら、海上帝国への一歩を踏み出すことになる。中国系とムスリム系の海洋商人を勢力下に組み入れ、東南アジアからインド洋に広がる国々と従属関係を結び、海洋交易ルートを確保していった。日本列島に対する威力行為、いわゆる「元寇」は、この巨大プロジェクトの余波にすぎない。

それは、ユーラシア大陸の内陸ルートと海上ルートがぐるりとつながったことを意味する。内陸は、黒海からペルシアを通って中央アジアを横断し、上都、大都へつながる、いわゆる「シルクロード」と言われる道である。海上は、ペルシア湾からインド洋を横断し、マラッカ海峡を抜けて泉州(今の福建省)沿岸へ到着。そこから世界最大の商業都市である杭州へつながり、大運河を通って大都へと至る。

一方、西ヨーロッパに目を移すと、ローマ帝国滅亡後長らく孤立していた時代から、十字軍運動をきっかけにアジアとの接点を持ち始めた時代への転換と重なる。ヴェネツィアやジェノバといった海洋都市国家が、ビザンツ商人やムスリム商人を経由して、この通商圏の輪に自ら加わり始める。こうしてはるばるヴェネツィアから内陸を旅してクビライに会いに行き、海上ルートで故郷へと帰ったイタリア商人、マルコ・ポーロの旅を記録したのが『東方見聞録』である。

世界中の商人たちにとって、一つの権力のもとで世界がまとまることは、彼ら自身の利益と直結していた。クビライ政権下では通過税は撤廃され、交通網は公費によって整備・維持された。今までよりも圧倒的に低コストで、安全に世界を移動できるようになった。

クビライは彼らの通商力を取り込み、人種も宗教も関係ない、文明圏を超えた世界通商圏を構築した。重商主義政策を推し進め、中央政府の歳入の90%以上を商業からの税収が占めた。そうして得た富を各地の王侯貴族へと下賜し、王侯貴族たちはそこから商業行為へと投資した。軍事力での支配から、経済ネットワークによる支配へと主軸を転換したのだ。

世界から壁が消え、人と物が循環することで世界がつながりはじめた。人種、言語、宗教、文化が入り混じり、共生する世界となった。後に近代化した西欧列強が、世界を商業でつなぐ400年以上も前のことである。

世界史の岐路

1294年、クビライは78歳で没した。クビライとブレーンたちが構築した世界経済システムは、1330年代ごろから機能しなくなっていく。14世紀は地球規模で天災が続き、農業生産が落ちこんでしまう。そしてペストの大流行が世界中を覆っていく。各地の権力基盤は動揺し、世界秩序が崩壊していった。

中国では、モンゴルの支配を脱し明朝が勃興する。明の第三代皇帝である永楽帝は対外拡大戦略を推し進め、鄭和による大艦隊をインド洋へと派遣。そして、大都を受け継いだ北京へと遷都する。つまりクビライの世界構想を引き継ごうと試みたわけである。

しかし永楽帝以降の明では、国家方針を極端に内向きに転換していく。海禁令を出し、万里の長城によって国土を壁で覆った。現在観ることができる立派な万里の長城は、明代に築かれたものである。

少し遅れて我が国でも、江戸幕府によって鎖国政策が取られることになる。戦国時代までは未知なる世界と莫大な富を求めて遠洋へと出ていく冒険的商人が活躍した時代があった。しかし17世紀以降は、中央政権によって管理統制された範囲での対外貿易に終始することになる。

東アジアが急激に内向きになる一方で、マルコ・ポーロの嘘か真かわからない冒険譚に心躍らされた西ヨーロッパ諸国の商人たちは、地中海から外洋へと飛び出していく。こうして大航海時代が始まる。15世紀から16世紀にまたがる100年間の意識の差が、この後の世界の趨勢を決める分岐点となった。

それは、「陸と馬」の時代から、「海と鉄砲」の時代への大転換であった。


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