見出し画像

#12 子どもの療育施設で感じたこと【放デイ】

おはこんばんちは。東京にいたときはずっとTBSラジオ派でした、青森在住マリエです。
本日は、「療育」ってなんだろうな、という私のぼやきです。

【放デイ】ってしってる?

私は知らなかったの、自分が働くまで。ずっとその存在をしらなかった。
一昨年、私は東京で不登校の子どもたちが過ごせる場所をつくりたいと思って、自分が未経験の教育分野を知るために、【放課後デイサービス】でアルバイトスタッフとして働かせてもらった。
(しかし途中で青森移住をするため辞めることに・・)

放課後デイサービス(放デイ)っていうのは、Wikipediaによると

放課後等デイサービスは、児童福祉法を根拠とする、障害のある学齢期児童が学校の授業終了後や学校休業日に通う、療育機能・居場所機能を備えた福祉サービス。略して「放デイ」。

出典:Wikipedia

障害を抱えた小学校〜高校までの子どもたちが、放課後や土曜日に過ごす場所。私のイメージでは、「レスパイト(親や介護者の休息)」や「療育(医療と教育の造語)」の、どちらかまたは両方を目的とする場所だと思ってる。

放デイでの勤務がはじまると同時に、【強度行動障害支援者】の資格(要件?)も取得させてもらい、日々障害の勉強をしながら、とても学びの多い楽しい時間だった。

できないことをできるようにする矛盾

私が働いていた放デイは、経営者の方がとても個性的でおもしろい方で、考え方が鋭く、すばらしい教室だったと思う。

ただ、現実問題、放デイは利用料金が国に定められ、運営していくには一定数の利用者がいないと成り立たない。そして、実際に施設を選ぶのは、子ども本人ではなく親。だから、親が選びたくなるようなカリキュラムや教育方針が重視されている環境だと感じた。

つまり、「子どもたちにとって適切か」よりも「親が求めているものか」という視点が大事になる。そして、多くの親は、子どもに対して「みんなができることを、同じようにできるようになってほしい」と心から願っている。そりゃ、そうなのもわかる。

ただ、放デイで働きながら子どもたちと接するうちに、私はその考えにどんどん違和感を感じるようになった。ここで1冊の本を紹介したい。

元Yahoo!の方で、自閉症のお子さんのためにロスで9年間の専門的な療育を受け、そこでの気づきなどを元に日本で放デイやグループホームを展開する佐藤典雅さんの本。
タイトルの通り、【療育なんかいらない】と「療育」というものの見方を捉え直す視点を提示してくれる本だ。

【治す】【みんなと同じにする】がそもそもおかしい

日本はとくに、「異物」を排除する社会だなと思う。みんな一緒でみんな安心、みたいな。
私はてっきり、放デイはそれぞれの特性にあった支援が受けられる場所なのかなと思ってた。でも、実際には、「みんな同じを強制する訓練所」みたいだなと思うことがあった。※常にというわけではありません

放デイに来ているのは、グレーゾーンもあれば重度もあるそれぞれに障害のある子どもたち。そもそも、普通の学校生活ができていたら、この放デイにきていないはず
学校では集団行動を求められ、一定水準の学力レベルを求められ、他者との共生が求められ、それができないからここに来ている。
しかし、放デイにきても、学校と同じようなことを、さらに訓練させられる。

「みんなと一緒にあそびましょう」「じっと座って話を聞きましょう」「ルールに沿って順番にやりましょう」
もちろん、苦手を訓練して克服し、社会性を身につけて成長していくことは大切だ。そうやって、数年でまるで違う人のように成長する人もいる。(人による)

しかし、私はどうしても「子どもたちを矯正する」という姿勢や方向性に違和感が拭えなかった。逆に、「どうやったら子どもたちが、そのままでも生きられる社会になるんだろう」とばかり、ずっと考えていた。

一人ひとりにケアできれば、綻びは解消されていく

毎日学びと実践と反省の繰り返しで模索するなか、障害を持つ子どもたちが、世の中でいう【問題行動】を起こすとき、子どもたちの奥深くにはしっかりとその行動をとる理由があるように思えた。

その本質的な理由を解決しないまま、「これをやりなさい」「みんなやってるんだからやりましょう」「ここではそういうルールです」など、正しい行動を促すだけだと、子どもたちの心はさらにこじれるように思う。
(あとは「それはいけません!」という否定系も避けたい。まずは、なぜその行動を起こしたのか?を考えたい。)

行動を強制されて心がこじれると、「この子は問題児だ」「言っても聞かない」「もう手に負えない」など周りの大人が思いはじめる。そして、それが子ども本人にも伝わり、人との信頼関係を築くことが難しくなる。これらを繰り返すと、さらに修復が難しい状況を生み出す。

今回は、わたし個人が放デイで出逢った子どもたちとの経験をもとに書いており、あくまで一スタッフとしての視点での気づきです。すべての障害や子どもに当てはまる専門性をもった知見ではまったくございませんこと、お含みおきくださると幸いです。

宿題とお母さん:Aくんの話

たとえばだけど、ぜっっったいに学校の宿題をしないAくんがいる。その放デイにきたら、まず学校の宿題を終わらせるシステムなのだが、Aくんは机に座ったまま頑なに動かない
目の前に宿題は並べるが、ぜったいにえんぴつを持とうとしない。
初めはどの先生も「宿題やろ〜!」「宿題やりなさい〜」など声かけするのだが、Aくんは相変わらず微動だにしない。

私も、押したり引いたり色んな声かけをした。
「宿題が終わったら自由時間だよ?いっぱい遊べるよ?」
「そんなにやりたくないなら、もう今日はいいよ。片付けて遊べば?」
基本的に、本人にメリットを提示できれば行動につながると思ったが、私の持てるわずかな引き出しでは、どの提案もAくんには響かなかった。

なにを言おうがムッとして動かないAくん。なんとか糸口を見つけ出せないか、と思い、Aくんになぜ宿題がやりたくないのかを教えてもらおうとした。

はじめは何を聞いても黙ってるだけのAくんが、少しずつことばを出しはじめた。

「家でやる」

「そっか、お家でやるか。でもお家でまた勉強するのイヤじゃない?ここで終わらせちゃえば、お家でやらなくて済むんだよ」

「…」

「それでもお家でやりたい?お家だと集中できる?」

「お母さんといっしょに…やる」

ここで私はハッとした。Aくんちはまだ小さい弟のいる3兄弟の家族だ。お母さんはきっと、いつも忙しなく小さな弟たちのお世話をしているはず。

もしかしたら、Aくんにとって『お母さんにかまってもらえる』からこそ、わざと宿題を終わらせないで家に持ち帰りたいんじゃないか。

よし、わかったぞ。

「お母さんといっしょに宿題やるの、たのしかった?」

「…(うっすら頷く)」

「そっか、お母さんに見てもらいながら宿題やるの、いいよね。でもさ、お母さん弟くんたちのお世話もあって、宿題みるの疲れちゃうかもしれないよね。」

「……」

「しかもさ、せっかくお母さんと過ごせる時間ならさ、宿題じゃなくて、たのしい話をする時間のがよくない?」

「……(目が輝きだす)」

これはイケる…
「それでさ、お母さんに宿題はもう終わってるよーって言ったら、お母さん喜ぶんじゃない!?」

「……(無言でうなずく)」

「よし、じゃあ終わらせちゃおう!」

なんと、Aくんはしっかりペンを持ち宿題に向き合いはじめた。そうか、Aくんが宿題をやらない理由は、「宿題がイヤ」なんじゃなくて「お母さんとの時間が増えるから」だったのだ。
(ちなみにお母さんからは、連絡ノートで宿題終わらせて欲しいとリクエストをもらっていた笑)

だから、「もっとお母さんと楽しく時間を過ごせる方法」「お母さんがよろこぶこと」を一緒に考えることで、Aくんが宿題をやらない原因を少しずつ解消することができたように思う。(ここではAくん本人へのメリット提示よりも、お母さんへのメリット提示が響いた事例)

ただ単に、怠惰で「宿題がいや」な訳ではなく、その奥に「宿題をしないことのメリット」があり、そこが解決の糸口になることをAくんの件から学んだ。
(ちなみに学校では、この微動だにしない態度を「無視してる」と捉えられ、先生からは嫌われてしまっている模様)

切り替えの背中を押す:Bくん

ふと思い出したのでもうひとつ、Bくんの話。
Bくんは頑固者で、いやになったら頑なに拒否する。そして負けず嫌いで、思い通りにいかないと癇癪を起こす。

この日も活動中に、みんなでゲームをしていたらBくんが負けるというシーンがあった。Bくんは怒りを露わにし、活動から抜けて「もうぜったいやらない!」と頑固モードスイッチがON。

私はBくんとは会って数回目、まだBくんの信頼できる先生には認定されてなさそう。さて、どうやったらBくんが機嫌を取り直して活動に戻ってくれるだろうか。

厳しい先生が
「はやく戻れ、戻れないならもう今日は活動参加させないぞ!」
など、定番の(?)声かけをする。
それが響くときもあるだろうが、今回のBくんはさらに頑固さを加速させたように見えた。

私はBくんに
「きっと今気持ちが落ち着かないね。ここで落ち着くまで、安心して過ごしていいよ。どれだけいても大丈夫だよ。」
と声をかけた。

今Bくんに参加を促しても、到底聞き入れてもらえないだろうと思い、「いまBくんは心が落ち着いてない」(=活動に参加したくないわけではない)ことを本人が自覚できるような言葉を選んでみた。

「きっと心の切り替えがむずかしいよね。ゆっくり時間かけていいからね。ここは安心だからね。」
Bくん本人は、なぜ自分が癇癪を起こしてるのか自分ではわからない。でも、「心の切り替えなんだ」と伝えることで、Bくんがいま向き合わなきゃいけないものは何かを外から提示できたらいいな、と考えた。

Bくんの様子を見ていると、チラチラと活動してるみんなのことを気にし出した。これは、ちょっと戻りたがってる…?

「もし大丈夫そうなら、そろそろ戻ってみる?」
と声をかけると、再びうつむき頑固モードへ
うーん、あとちょっとで切り替えができそうだけど、やっぱり新しい先生(私)の声掛けには警戒をする。あと一押しが何か必要だ。

Bくんにとって、まだ信頼のおけない先生という立場の私は、他の子どもたちの力を借りることにした。
一度活動中のみんなのところへ行き、少し会話をしてまたBくんのところへ戻る。

「なんかね、みんなもBくんのこと、気にしてるっぽかったよ。みんな大丈夫かなって心配してる感じだった」

頑固マンなBくんと、まだよく知らない先生(私)とのあいだに、「みんな」を挟む。ここでのニュアンスは「(先生はまだここにいてもいいと思うけど〜)みんなは来てほしそうだったよ」という感じ。

この声かけのあと、なんとBくんは一瞬の迷いもなく立ち上がり、(しょうがねぇな〜)と言いたげに首を斜めにかしげながらみんなの輪の中にもどっていった

おおお、まじか、「みんな」のパワーすげぇや!
こうやって、本人と支援者のあいだに、適切に他者を介入することで話が進むことがあると学んだ。

一人一人のケアがむずかしい理由

こんな日々の試行錯誤が本当に毎回楽しくて、自分の脳みそのレパートリーをどんなに捻り出してもまったく足りなくて、子どもたちが都度教えてくれるその解に、毎度頭をかち割られるくらい衝撃&学びをたくさん浴びた。

今回は発語のある子どもたちのパターンを紹介したけど、他にも無限大に【側から見るとナゾ】の行動に秘められた一人一人の理由がわかるたび(100%解明できるわけではないけど)、心の底からガッツポーズが湧き上がった。
障害というのは、マニュアルや正攻法だけでは解決できず、一人ひとりに向き合うことでしか適切なケアは導き出せないことを実体験を持って知れた。

ただ、放デイなど福祉施設は人手不足や人員配置の要件などにより、現実的にすべてに手厚く人を置くことはむずかしい。だからこそ、一人ひとりに合った支援というのは、満足いくほどできないのが現状なんだと思う。(少ない人数の大人でたくさんの子どもたちをみなければいけないから)

まだまだ仮説ではあるけど、みんなと同じ行動をするよう一律に促すのではなく、一人ひとりに沿ったケアができれば、【問題行動】とされることを支援者側も理解しやすくなり、「ただ罰する」「否定する」ではないポジティブな行動喚起ができるのではないか。(そして叱る系より安全かつ迅速に解決できる場合も)

今回は触れるだけに留めるが、以下のような身体拘束や監禁を一つの手段とする場合(逮捕者が出たケース)や、それ以外にも緊急性により強行手段を取らないと自害・他害の出るケースもある。

すべてにおいて有効な手段とは限らないが、少なくとも私が接する周りの世界では、このポジティブの連鎖で社会側の障害を除去できたらいいなぁと思う。
障害の理解は全人類に有効だと思うので、これからも学びを深めていきます。

サポートいただきましたら、私も誰かをサポートしエンドレスサポートトゥゲザーします。