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#8 自己肯定化訓練の話

ついに、この話をするときがきてしまった。こんにちは、マリエです。東京から青森に移住した者です。
今回は、まわりのお友達に評判のよい【自己肯定化訓練】のお話をします。熱が入りすぎて長くなったらすみません。(長くなります、休憩を挟みながらどうぞ)

そもそも自己肯定感とは

「自己肯定感」ってよく耳にしますよね。なんか大事そうな響きですよね。「自己肯定感が低いとなんちゃら〜」みたいな、なにか自肯定感が人生を左右しそうな勢いで語られる感じがしますよね。
「自己肯定感」とは、"自分の存在をあるがまま受け入れること"かと思いますが、実際には定まった定義のない言葉だそうです。(参照:wikipedia

「あるがままの自分を受け入れる」ってとても大事なことだけど、先日YouTubeで配信したように「自分を受け入れる」ためには「他者に受容された経験」が必要なんじゃないかって思ったの。

「他者に受容される経験」っていうのは、性別や役職や年齢や属性などにとらわれず"そのまんまの自分"として接してもらった経験だと思う。しかし、そんな経験って得ようと思って得られるものではなく、本当に運とタイミングでしかない。

「他者」は人間に限らない

だから単に「自己肯定感が上がるようなことをすれば、自ずと自己肯定感が上がる!」という性質のものではなく、まず土台として「他者に受容された経験」がなければ成り立たない。
ちなみに、この"他者"というのは「実存する人間」に限らず、アニメや映画、本や音楽やアートでもいい。心の底から「自分のことをわかってくれる存在がいるんだ」「同じような考え・経験の人がいるんだ」という受容感を得られたかどうかが鍵である。

"受容感"という言葉は、「≠孤立・孤独」という意味で、他者とのつながりや同質性の享受をするニュアンスで使っています。

29歳でとことん自分と向き合って見えたもの

私は幼少期から成人に至るまで、自分では無自覚だったが「優等生」として生きるクセが身についていた。自覚ないのが厄介で、「優等生になろう」としているのではなく「優等生であることが当たり前」という感覚。
そんな自分を疑ったこともなかったし、ちょっとオーバーに言えば「人間はみんな優等生として生きるもの」と思っていたと言ってもいいくらい、自分にとって優等生として生きることは当然だった。

しかし、29歳のときに恋人と別れ仕事を辞めたとき、それまでなんとなく想定していたキャリアや結婚などの未来がすべて途絶えた。
「29歳独身無職」というのは、当時の時代的雰囲気も踏まえアラサーの私にとっては死活問題だった。*1
結婚をして家庭を持つでもなく、仕事に励んで自立をするでもなく、どちらもない宙ぶらりんの状態

*1 今はまったくそう思いません

当時は変なプライドが邪魔して、友達にも「無職」というのが恥ずかしく「転職活動中なの」とか言っていたけど、本当にシンプルに無職だった。メンタル的にも正社員としてガツガツ働ける状態ではなく、ゼロベースで人生を考える必要があった

以前キャリアについてまとめた通り、当時は傷心モードだったので人に会わなくてもできる仕事をしながら、なんとか減り続ける貯金に歯止めをかけようと必死だった。

この窮地を自分の糧にしなければ、と人生のヒントになりそうなブログや本を読み漁り、「自分が人生で望んでいるものは何か」をそのタイミングでとことん考えた。
そこで初めて、私は自分の人生なのに「周りの人にどう思われるか」を軸に人生を歩んできたような気がし、さらに「ワレ、めちゃめちゃ優等生ぶっておらんか?」という自問にぶつかった。

当時のノートやブログをみると、本当に思考があっちこっち行き来し、何度も交錯して、なんとか"自分の心の奥底の声"を聞こうともがいてるのがわかる。恥ずかしいし可愛い。

染み付いた八方美人を解消するために

優等生として生きることが当たり前な私にとって、「求められる役割に応じること」「その場の雰囲気で適切な対応をすること」が空気を吸うのと同じくらい体に染み付いていた。
(むしろ、求められた役割に応じないこと、空気を読まないことはこの世界では許されないような気さえしていた)

そんな私だから、誰からも好かれるようにその場に応じて柔軟に態度を変え、言葉を選び、無礼のないよう人と接していた。これを『八方美人』だと思ったこともなかった。ただ、この八方美人をやっている限り「自分の感情を素直にそのまま出す」ということはできず、常に自分は心を制御し、他人ばかりを優先して自己犠牲が当たり前にできる状態だった。

おおおおおお、私、めっちゃ自己犠牲大好き、自己犠牲は美徳と思ってるし、自分を抑えて相手を立てる私って立派
ってくらい思ってた。ヤダァ
でも、そのクセ地味にストレスが蓄積して、人に会うのは疲れ、会社の飲み会は疲弊して、得体の知れぬ鬱憤を抱き続けてた。ヤダァ

なんで、私は私を優先させてあげないんだろう?
なんで、私はずっと自分を我慢させてるんだろう?

人生で初めて、自分が自分をないがしろにしていることに気づいた。

長年の優等生ぶりっこにより、自分の声が聞こえない問題

そこから、もっと自分の声に素直に耳を傾けて、ありのままの自分を出せるようにしようと思った。が、
そうは問屋が卸さない。(この表現はじめて使ったw

「自分の気持ちを大事にしよう」と思ったところで、長年私は「心ではなく頭を優先させてきた」という壁にぶつかる。

一体どういうことかというと、

「今日はスーパーで自分の食べたいものを買おう!」と思っても
→値段やカロリー、栄養成分や産地などの情報で判断するクセがつき、「自分が食べたい」という感覚がわからない
→長い間頭脳で判断してきたので、自分の感覚をキャッチする能力が鈍っている

こんな風に、「自分が食べたいもの」すらまともに感知することができない。もしこのまま自分と向き合うことなく年齢を重ねていったら、私はいずれ感情のないロボット人間になっていたのでは。そんなこんなで、自分の声を聞くリハビリが始まった。

一に実践。二に実践。とにかく体に叩き込む。

自分の感覚をつかむのと同時に、「自分を褒める」という訓練をした。自分の人生は他者のものではなく自分のものだと理解したとき、「誰かに認められる」ではなく「自分が誰よりも自分を認める」ことを目指そうと思った。

自分を褒めることに慣れてない私は、最初はわかりやすく外見を褒めるような「今日もかわいい」とか「今日も素敵」とか言ってたけど、だんだんと繰り返していくうちに「外見を褒めることは別にうれしくない」と気づき、いつぞや「今日も尊い」と口癖のように言うようになった。

朝起きて、鏡をみて寝グセボサボサ、顔むくむくな自分に「今日も尊い」、仕事終わり、顔テカテカ目の下クマの自分に「今日も尊い」どんなときも「私は尊い」を繰り返した

こうして自分に対しては肯定的な表現ができるよう練習しつつも、対「人」についてはまだまだ空気読み、八方美人が抜けられない。素直に、ありのままの自分を出すトレーニングをしたい。そこで婚活マッチングアプリを活用した。

婚活マッチングアプリで怒涛のトレーニング

実際は知らんけど、当時は婚活マッチングアプリの全盛期(ほんとかよ)で、いろんなタイプのアプリがあった。私は3つほどアプリを駆使し、自己トレーニングのために利用を開始した。(婚活する気はぜんぜんなかった)

どんなハイスペックイケメンが来ても、猫をかぶらず空気を読まずそのままのマリエちゃんを出す。アプリならもう2度と会わなくて済むだろうし、嫌われても問題なし。こうして、できるだけ普段会わないような(猫かぶりたくなりそうな)ハイスペックな人とたくさん会うことを目指した。

はじめてのマッチングでさっそくの試練

何人かと会う約束を取り付け、さっそく一人目との訓練日。お相手はAさんとしよう。Aさんと恵比寿でランチというシチュエーションのなか、心では「猫かぶらない、猫かぶらない、そのままのマリエちゃん、ブツブツブツ…」と唱えつづけ、そして、その時はきた。

ふと会話のなかで「たまごかけごはん」の話になる。

Aさん「たまごかけごはんは、何かける派?」

マリエ「え、ふつうにお醤油です」

Aさん「定番だね〜ごま油もかけるとおいしいよね」

マリエ「あ〜それはおいしいですね」

Aさん「じゃあさ、たまごはどのタイミングで混ぜる?」

マリエ「え、そんなの意識したことなかったです、お醤油かけたらすぐ混ぜるかも」

Aさん「ほら、混ぜるタイミングがさ、なんちゃら〜(こだわりを語る)」

マリエ心の声「(は?そんなんどうでもいいわ)」

ハッと気づく。今わたし、心の中で「どうでもいい」って思ったぞ。
普段だったら空気を読んで
「そんな食べ方もあるんですね〜グルメですね〜!」
なんて相手を立てちゃう。

でも今、私「どうでもいい」って思ったよ?
どうする、マリエ、そのままのマリエを出す?

でもこのタイミングで「どうでもいい」とか言ったら相手の気分を損ねない?まだ食事スタートする前なのに、ここで解散とかなっちゃう?相手にめちゃめちゃ失礼じゃない?

頭の中でナノ秒で思考が渦巻くマリエ。そして、出た


マリエ「私、それどうでもいいです」


マリエ心の声「(言ったあああああああああ、あああああ嫌われちゃうかもおおおお!!!うおおおおお!!!!!)」

そしたら
Aさん「まぁお腹に入っちゃえば同じだもんね♪」

ってニコニコしとるぅぅぅ〜〜〜!!!語尾に音符ついとるぅぅぅ〜〜〜
嫌われなかった〜〜〜!!!よかったぁ〜〜〜!!!!

そうか、今まで「これを言ったら嫌われちゃうかも」と思っていたのは私の先入観で、人は以外と受け入れてくれるのかも、ハッキリ言っても全然イヤそうな顔しないし、むしろこれまで取り繕ってたキャラより全然いいのでは?

そんな風に、小さなトライ&エラーを繰り返し、「自分が思ったことを素直に伝える訓練」を繰り返した。

頭でわかっても身につかない、実践あるのみ

当時、さまざまなブログや本を読み漁ったと書いたけど、私のように人生を模索して、いろいろと情報収集している人は多いと思う。しかし、情報収集で陥ると怖いのは、「頭でわかった気でいるだけ問題」だ。

自分に必要なこと・やるべきことは頭ではわかりながらも、それをわかっただけで満足して現実は何も変わらないパターン。
たとえば「自分を大切にしましょう♡」とかそれらしい文章を目にしたとして、「そうか、自分を大切にすればいいのか」と頭では理解するけれど、

  • 自分を大切にするとは具体的にどういうことか(また自分にとってはどういうことか)

  • 自分を大切にすることが実践できるか

  • 実践できたことが反復、継続できるか

など、得た情報を頭に止めておくだけでなく、本当に体得したいならとにかく実践を繰り返して体に覚えさせるしかない。一に実践二に実践、婚活アプリはその実践の場として大変活用させていただきました。
(それにしても、とても素敵な人たちにたくさん出会えました!)

ちなみにこうやって認識を変えたり行動にアプローチする方法は、行動認知療法といって科学的な精神療法の一つとして使われているらしい。なので私の個人的な経験によらず体系的に効果が立証されてるのだと思う。←気になって本読んだ

あ〜ら、ごきげんあそばせ、マリエの開花

そんなこんなで右往左往しながら、「自分の心の声を聴くこと」「自分の素直な気持ちを表に出すこと」「自分を褒め上げること」を体に叩き込ませ、気がつけばすっかり「自分の人生は自分で舵をとるモード」に成りあがりました。自分に素直に生きるっていうことが、優等生ぶってた自分にはそれはそれは大変な道のりだった。

きっと今もリハビリ中の身だけど、アラサーだった当時の自分に比べれば200倍くらい自分を開花した。と思う、しらんけど。
ただ、実際には上記の自己肯定化訓練のみならず、働く環境や刺激を与えてくれる存在があったことも大きく影響してる。しかし、そのような環境や存在に恵まれたのも、自分が自分に素直になったから引き寄せた結果だと思う。

「生きてるだけで尊い」に至るまで

昔さんまさんの「生きてるだけで丸儲け」という言葉が"名言"っぽく扱われていることに、まったく理解ができなかった。うつを患ったこともある私は(この詳細はまた記事にします)、「生きてるだけ」でも、何も価値を生み出さない人間は「生きる価値がないのではないか」と不安になることがあった

何か、社会的に価値あることをしていないといけない気がして、いつもどこか焦っていた。しかし、そんな私が、いまや寝っ転がってオナラしてるだけでも、ぼーっと何もせず過ごしてるだけでも、「私は生きてるだけで尊い」と思うようになった。

排泄をしても尊いし、睡眠をしても尊い、逆に便秘になっても不眠になっても私は尊いと思っている。この大変におめでたい脳みそは、誰にも奪えない私の宝だ。そしてこのおめでたい脳みそは、私と同じように後天的に誰でも身につけられるのではないかと思ってる。

「ポジティブはスキル」だとどこかのTwitterで流れてきた。私も本当にそう思う。
「自己肯定化訓練」というのは、私が私の人生をよりよく生きるうえでとても有効な手段であったし、その結果めでたくお花畑のような脳みそになれたことも良い結果だった。
そしてお花畑野郎が1人でも増えることは、地球にとってもいいことだと勝手に思ってる(この辺りがお花畑でよろしい

「自分に素直に生きる」ってことが、こんなにも小難しく、抑え込まれてしまう生き方をしてしまいがちな世の中なのだなぁ。

なんと、あまりに想いが込もりすぎて、まさかの5,000字超え!超大作〜どんだけ私は伝えたかったんだw
もしここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました!



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