人が人と出逢う意味

心をひらくのはやめようと決めた翌日。

人に会う予定が入っていた。まぁ、会うの2回めだし、そんな開かなくてもいいはずだ。

身構えることなく約束どおりの時間と場所へ向かう。


前回会ってからの話とか、近況報告などをして何故だか相手が話してくれることがズドーンと入ってきた。

この人(先生)とお客様のエピソードが、お客様の命を守るというか救う内容で、

このお客様、先生と出逢っていて良かったですね!というわたしの感想は、そのまま「わたし、先生と出逢って良かったです」っていう氣持ちにつながっていた。

だって。

ここに来るまで、心をひらくのはやめようと思っていたから。

誰にも俺の氣持ちなんかわかんねーし。

なんて中2みたいなことを思って24時間も経たないうちに、あぁ、この人と出逢ってよかったと思っていたから。

自分の仕事に誇りを持っていて、たぶん無意識なんだろうけど「貢献」という言葉を何度か口にされていた。

そうだ、わたし…自分の仕事で貢献したかったんだ。忘れてた。

お客様の声、とかクチコミとか、すごく大事なんだけど集めるのが苦手で、それを披露しなきゃいけないみたいなプレッシャーがわりとあったけど

真実の声って、先生とお客様との関係みたいに生でやりとりされていくものだし、感想書いて。とか言ってる場合じゃなく救ったりするものだし、

そんな可能性を秘めたおしごとをしてるんだってこと、何より自分が忘れちゃいけないってあらためて思えた。

わたしのところに来られているお客様が「利他についてわからない人とはわかりあえない」と話していたことが、あの時とても共感できた。でも、実際は自分のことだけ考えればいい。という風潮に世の中は動いていて、単純にどっちか?って話じゃないのにな…っていう違和感を抱いている。

セラピストなりヒーラーなりをしていると、自分の感覚を使ってクライアントの状態を知ることはスタート地点。

利己的な判断では見誤るし、それこそ利他的行動だと自分では思っている。必死でそのことに向き合う場合、クチコミや感想どころではない。

何に重きを置いていくのか?

素敵な先生に出逢えたと思う。貢献のカタチを身をもって教えてもらった。

アンタがやりたかったのコレやろ?って、天の配剤というべきか。

わたしは貢献の視点でモノを見ていこうと思い直せた。人と人が出逢う意味は、きっとこういう氣づきによって齎される。




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