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ガチの鬱ってしんどいが、まだ生きてやる

生きていい理由もないが、
死んでいい理由もないからな。

何にもないのに毎晩しくしくと泣いてしまう、そこらへんの3歳児より泣き虫になった26歳だけど、ちゃんと鬱で、ちゃんとニートで、ちゃんと生きている。
偉くはない。
でも、偉くなくもないんだ。

良いじゃないかそれで。


以前、こんな記事を書いた。

鬱と診断されてから久しいが、何ヶ月休職せど、「一刻も早く社会に復帰しなくちゃいけない」って焦りは一ミリも抜けなかった。
社会人になってからこのかた、いや学生をやり始めてからずっと、何かしらの己の成績で社会価値を感じてきたのだから当然と言えば当然だ。

たくさん働きたい。
もっと高みを目指したい。
そんなわたしが「自分のできる範囲内で」とか、柔らかな言葉に満足できる訳がない。
でも、実際にそうなのだから仕方がない。

クソが。

でもねえ、もう、良いんだわ。
というか、できないんだよ。

ちゃんとね、デザイナーとして仕事を取った。仕事をさせてもらった一時的な期間であっても、社会人として信用していただけた。世の中に成果物を送り出した。でも、それ以上、続けられなかった。
ぷつっと糸が切れてしまったのだ。

少しでも気を抜けば、またダメになりそうで。
仕事をいただいている間、寝る間もずっと気を張り詰めて。
なんとか化けの皮が剥がれないうちに納品して、でも、結果が良ければ良いだけ、信頼されればされるだけ、仕事はどんどん降ってきて、それが、本当にありがたかったのに、今の私にその緊張をキープするのは酷すぎた。

ああ、もう無理だ。
本当にわたしは壊れてしまっているんだ
、と実感した。
仕方ない。それが、何年も積み重ねた我慢かなんかの限界点だったんだ。


そりゃさ。
こんな弱音を全世界に晒すのに抵抗が無いわけじゃない。
何より強く見られたかったんだもの。仕事、したかったんだもの。
仕事を一緒にする仲間がこんな弱音ばっか吐いてたら、安心して仕事を任せてもらえないと思ったんだもの。
名刺にも、自分のこのnoteのリンクを載せてるんだもの。

でももうそれを考えることよりも、しばらくはありのまま、弱くいることを選んだ。




今はね。

こんななんの使い物にもならないわたしを実家に住まわせ、優しくしてくれ、リハビリがてら作る慣れない料理を喜んで食べてくれる両親と、何考えてるかわからないけどいつもニコニコヘラヘラしてる犬に居場所を与えられながら、
毎晩、自分の不甲斐なさに泣いてしまいながらも生きている。

どうやら、こんなわたしでも生きてていいらしいもんで。

焦らなくて良いからゆっくり良くなればいい。ながーーい目で、今をゆっくり生きればいい
そう言ってくれるもんで。


生きててごめん。心配かけてごめん。何も出来なくてごめん。
優しくしてくれてごめん。
弱くてごめん。

いつか、ながーーい目で、
恩返しをするために、まだ死ねないよなあ。


Emoru

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