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生きづらさは「恐怖」から来ていた。その正体は? - 『あやうく一生懸命生きるところだった』 より

本日の曲はこちらです。

ヴィヴァルディの『四季』より、『冬』第一楽章。

わたしの聴き慣れた調とは違う(知ってたのは一番盛り上がるとこが 🎵ソッソソソソ ソッソッソッ #ソッ(#ドッ) #ソッ(#ドッ) #ソッ(#ドッ) #ソッ(#ドッ) ファッ ファファファファ ファッファッファッ…… のやつだった。Youtubeのはたぶん半音下げ)。なぜ協奏曲ではたびたび、演奏によって調が違うバージョンがあるのか計り知らないので、いつか知りたい(調べなさい)。

『四季』は『春』が有名だけど、これって、ああ、これがこの有名なやつか!と無知ながらはたと膝を打った。モーツァルトか何かだと思ってた。おばか。


今、この本を読んでいる。

著者は39歳まで会社員とイラストレーターをがんばっていた。40歳の誕生日を目前に「自分の人生の方向は果たして合っているのだろうか」と突如疑問を持ち、前触れもなく会社に辞表を出すところからエッセイは始まる。


こちらとしても人生の進捗は芳しくないわけだが、こういう軽いエッセイは助かる。リラックスにも良い。よっこいしょ。
………あれ。もしかして、ちゃんと考えながら読んだ方がいいやつかもしれない。つまり限りなく今の自分に有益そうである。

というわけで、ほんの数ページ読み進めただけにも関わらずどこどことヒントが降ってきたので、慌てて手帳に手記をしたためた。
普段なら書き殴りの手記を世に出すなんて真っ平ごめんだが、なんとなくのフィーリングで今回は公開してみようと思う。




わたしはきっと、ずっと怖がっている。
何を?人を。

人の裏切りが怖い。人の妬みが怖い。
人に失望されるのが怖い。
人に期待されるときが怖い。
人に期待してしまう自分が怖い。

それはなぜ?
本当は怖がりたくない。本当は、えいって、巡り合わせに任せて、「未来のことはよくわかんないけど、今はたのしもーよ」って、不確実性に対しても、自分の全身を使ってワクワクしたい。

なのになぜ?
それは、わたしが提供する "モノ" に価値があるという社会構造に一生懸命張り付いてきたから。もっと言えば、その提供物のクオリティが低ければわたし自身の価値も下がってしまうかのような、そんな狭い思い込みで自分をがんじがらめにしてまで、何かに勝ち続けたかったから。


そうではなくて、きっと必要なのは、わたしの "存在そのもの" をわたしが "在っていい" と受容すること。それがすべての人間関係、そしてその先にある社会活動を「たのしもーよ」をするための大前提なのだと。


そうかもな?
ずっと勝ち負けにこだわった生き方をしてきたのかもしれない。
平均以上の学力、コミュ力、顔面の可愛さと服のセンス、収入、家賃、暮らしの質、インスタの映え具合、同期より早く出世すること。

……あれ?
わたし、これっぽちのもののために、疲れてしまったの?
つまりこれって……

これまでほしがってきたものは全部、他人が提示したものだった。みんなに良く見られようとしていた。それが恥ずかしい。

『あやうく一生懸命生きるところだった』

そうじゃん。他人の物差しじゃん!!!ヒイ!

著者の方は「恥ずかしい」と書いているけど、わたしは恥ずかしいことだと思わない。だって、資本主義は、他人と競争し、勝って成果を上げることで豊かな暮らしができるシステムなのだから。よく見られたい、優秀で可愛くてコミュ力もあっちゃうわたしでいたい、そう思っちゃうのなんて当たり前の話じゃん?


でも実際、相対的に "他人より優れている" こと、またそう評価した結果を確認することでしか自分を認められなかったのは事実だった。
肝心なのはその前提に、自分が存在としてただ在っていい、と認めることができなかったこと。巷に言う "弱い自分もまるごと愛する" 自己受容ができなかったのが、苦しかった原因だった。

前提が肝心なんだよ。
すっぽりと抜けててさ。あらら。
それがこんなに苦しいなんて。


でもさ、だからって "じゃあ自分を愛せるようになりましょう" それじゃあちょっと漠然としすぎてるし、ちょい仰々しいし、何度も言ってるけどやっぱそういうのってもっと簡単な話だと思うんだよね。

思考のクセを見直すとか、今みたいに根源の原因に立ち返ろうとするのはもちろん大事だけどさ、もっとほら、
雪が綺麗だなと思うとか。
ふとんが気持ち良いなと感じたりとか。
作った料理がうまくいって、家族が喜んで食べてくれるとか。
マインドフルネスじゃないけど、そういう "足るを知るを全身で知る" ことで、そのふっつうの幸せを自然に感じられるようになることが、いつか言っていた自己受容につながっていくんじゃなかろうか


そしてもう一つ大事なこと。
ちゃんと欲を言うこと。
足るを知ると言っときながら、だけどさ。

わたしも言うぞ。

人を愛したい。
もっと可愛くなりたい。
デザインの仕事、たくさんやりたい。
尖ったクリエイティブだって世に出したい!
わたしが人生を積んで絞り出したアウトプットで喜びをあげられる人になりたい!料理もクリエイティブも、優しさも!



こんなにも令和の資本主義の闇にコテンパンにされながらもなお、雑草魂で「やっぱり幸せになりたい」って声なき叫びを出せるのは、まだ生きていたいからよ。




手で書いていると不思議なもので、しかも万年筆で書いていて消せないので、上から下へと思考がダラダラダラダラダラダラと続いていく。
それでふと一息ついて落ち着いて見てみると、書き始めと書き終わりの部分では思考の進歩が見られるようになるんだな。


書き始めのときは、「勝つことに必死で、他人の物差しばかりがんばって気にしていた自分がダメだった。だから疲れちゃったんだ。」
それが書き終わりには、「それでも、必要なステップさえやり直せばまた生き直せる気がしてきた!」となった。

そのステップは2つ。

  1. 日常にある "今" を感じて、ある幸せを噛み締める練習をすること。そしてそれを、いつか自然に行えるようになること。

  2. 他人の物差しではなく、主体的に湧き上がる "欲" に耳を塞がないこと。自分ならできると信じること。それを生きる希望とすること。



うん。
サラっと書いたけど、この2つだけでもすごーーぉく時間がかかることなので、焦るかもしれないけど焦っちゃいかんのだ。
てか、焦るだろうな。

でも人生何十年かあるうちの一年やそこら、ひっそりと "巣立ちのやり直し" を試みる時期があってもいいんじゃないかな。
わたしは今ここ。

地に足をつけ、自分を愛し、いつか大切な人ができたら、その人もうんと愛せるように。
それが世界を愛し、人生を愛するってことなんだよね。

多分。


Emoru


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