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正解のない問題の提示

「探究」と「正解のない問題」

先日のある小学校の研究発表会では、「正解のない問題」を学習の題材にして行う「探究」がされていた。

正解のない問題の提示

今日YouTubeで「アコム法律事務所」の「安楽死」をテーマにしたShort動画を視聴した。

この内容はとてもナイーブで取り扱うこと自体、とても難しいと思う。
安楽死の賛成派と反対派がコメント欄で議論しており、議論になることを理解した上で投稿主も動画を投稿しているようであった。

ぼくはあえてこの議論には加わらず、この短い動画を視聴してすごいと思ったことだけを残す。

それは、賛成派と反対派でどちらの考えも論理が通っている場合の「正解のない問題」の提示の仕方である。

「バイアス」の存在

人間が議論するとき、基本的に暗にどちらかの意見が正しく、どちらかの意見が誤っているように思える。
これを「バイアス」という。日本語では先入観や偏見と訳されることが多い。
これは誰もがもちうるものである。
もちろんぼくにも、あなたにも。

「バイアス」を前提とした提示の仕方

この動画でうまいのは、
どちらの言い分も論理的に紹介した上で、「みんなの意見を聞かせてほしい」
としていることにある。

正直にいうと、この議論は結果を出さないと安楽死に関する法整備は進まず、結果的には安楽死賛成派の求めるような結果は出ないだろう。

しかし、まずはこの国に住む人が「安楽死」という「正解のない問題」を確実に自分ごととして考えることが、大前提にある。

「探究」という言葉は
何かを探し求める「探求」ではなく、
何かを何かを探す過程で何かを究めることを意味している。
学校教育では「探究」学習という言葉を用いるが、
これは何を学ぶかではなく、何かを通して学ぶことを意味しているからである。

今回、この動画の投稿主は「安楽死」の賛成派と反対派の意見から、結果を出すことを求めず、「まずはみんなが自分ごととして考えること」を目指している。

これは「正解のない問題」をみんなで考えていく際の第一歩となる考え方だと思った。

テーマが真面目すぎて、珍しく真面目なことを書いた。
でも、この考え方は自分が人と関わりながら生きていく上では、必ず必要であると思う。

「論破」という言葉が流行っているが、論理を通して話すことは大切な能力であるが、必ずしも、人を自分の意見で負かす必要はないと感じた。

忘れないようにここに書いておくことにした。

ブログ更新が習慣になるまで

あと27日



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