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『塩狩峠』三浦綾子

2020年2月24日11:50
以下、iPhoneのメモより読書の記録
鍵なしで世に放つのは初めて。

何がきっかけだったか、数年前に
事故のことを知って以来ずっと、読みたい、
これは読まなきゃと思っていた作品。
半年強ほど前に買うことを決め、
それでも内容の重さを知るがゆえに
なかなかつっかえていて、
枕元で積読になっていたけれども、
ようやく精神的に受け入れられそうな
気がして長野政雄氏の命日が近付く
2月20日金曜日、手に取る。

物語は永野氏が幼少期からの成長を描く。
人間の欲と闘い、愛する者へ
生涯の忠義を尽くした青年の話である。
三浦綾子氏のあとがきによると、
実在の長野氏は小説で書かれた永野氏よりも
はるかに仁徳のある方であったと思われるが、
個人的には永野氏のような生き方を選んだ者が
この世に存在したこと、そしてそれを
上回る者が在ることに強烈な感銘を受けた。

塩狩峠を語る際、キリスト教の話を避けることはできない。
正直これまで、宗教というものがわからなかった。
何を信じようが信じまいが、
全くもって個人の自由である。
私個人としては、育ての親は
最も重要な宗教であると考える。
自我の芽生に従って、
子は親という宗教から自立し、
距離を置くことがある。
ところがその「親」が
後から現れた場合どうだろう。
幼児の頃より育てられた考えとは
異なるものを、本当に愛すべき親が
後から持ち込んだらどうだろう。
受け入れるまでにはかなりの時間が
かかるはずだ。永野氏も苦難した。
人によっては相容れず関係が
絶たれる場合もあると思われる。
幸い氏はこれまでの自身の厳格な生き方に
ピタリと当てはまったキリスト教の考えを
受け入れ、後に人生を神に捧げる選択を
採ることになる。
かつては「ヤソ」とキリスト教信者を
嫌っていた氏であったが、母との繊細な関係、
吉川やふじ子との出会い、祖母や父の死が
(隆士のきっぱりとした性格に救われた
部分もあったのではないか。)氏の人格を
さらに大きく作り上げていったと見る。

宗教とは、人の心の拠り所となるものと考える。
人間は何かすがるものがなくては生きていけない。
神や先祖や自然、命あるもの、何であっても
すがりながら生きていかなければならない。
その一方、キリスト教では神に捧げる
犠牲という考え方がある。
与えられたものを生かすだけではなく、
自らを犠牲にしてでも
他に与えることを選ぶ心。
塩狩峠はそのようなことを
不勉強な私に教えてくれた本である。

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